ク、その櫃は長さ僅に三尺五寸ばかりで、辛うじて身を容れるに過ぎないものである。故にローフェスタイン城からゴルクム町に達するまで、グローチゥスは窮屈なる位置姿勢で忍ばねばならず、もしまた運送の人夫が倒様《さかさま》に櫃を置いたり、あるいは投げ出しでもしたなら、それこそ大変、生命の危険にも立ち及ぶ虞《おそ》れがある。なおまた櫃の蓋を密閉するときは、窒息の禍を招かぬとも限らないのであった。
かような仕儀《しぎ》であるから、マリア夫人は種々苦心熟慮の末、かつて雇傭してその心を知り抜いている忠僕と忠婢に、予《あらかじ》め密計を語って、城外にてその櫃を受け取り、直ちにこれをゴルクム町の友人の家に護送する事を依頼した。またその櫃には小さい孔を穿《あ》けて、空気の流通を自由にし、しばしばグローチゥスをこれに入れて試験を行い、それからひたすら、好機会の到来を侍っておった。
偶《たまた》ま典獄なる司令官が公務のために他所へ旅行した事が分った。これこそ天の与えた好機会と、その不在中にマリア夫人は、夫グローチゥスが伝染病に罹ったと称して、監守兵らが両人の監房に出入するのを遠ざけ、且つ司令官の妻を訪問して、自分の夫は近頃病気に罹ったために、読書著述が出来なくなったから、一先ず書籍をゴルクム町へ送り返すことを乞うという趣を語って、その承諾を得、直ちに獄舎に帰り、予定通りに例の櫃の中にその夫を潜ませて、二人の監守兵をしてこれを運び出させようとした。しかるに、監守兵の一人はその櫃の平常よりも重いのを訝《いぶか》って、
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この中にはアルメニアン教徒が這入っているのではないか。
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と言った。これ実に発覚の危機、間髪を入れない刹那であった。この時に当り、もしマリアの機智胆略がなかったなら、文明世界が国際法の発達を観ることなお数十年の後になったかも知れぬ。マリア夫人は声色共に自若、微笑を含んで、
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さよう、アルメニアン教徒の書籍が這入っているのです。
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と答えた。それで兵卒らも終《つい》に蓋を開くことをせず、そのまま櫃を城門外に運び出した。
忠僕某は、マリア夫人の兼ねての命令の通りに、城外で櫃を受け取り、直ちにこれを船に乗せて、運河の便を借りて、ゴルクム町に運送しようという考案で、船頭に対《むか》って充分の注意を与え、櫃を倒置したり、投げ出したりすることを禁じて、丁寧にこれを取扱わしめた。やがてゴルクム町に到着したが、その時船頭は、その櫃を橇車《そり》に乗せて、行先へ送ろうとしたのを、かねてよりそこへ来て待ち設けていた忠婢某が出て来て、その中には破損しやすい物が這入っているのだから、自分が受け取って行くといって、櫃をば担架《たんか》に乗せて、それを夫人に命ぜられたグローチゥスの友人ダビット・ダヅレールの宅へ送り届けたのである。
自由を得たグローチゥスは、直ちに煉瓦職工に変装して、一|梃《ちょう》の鏝《こて》を持って逃走し、アントウェルプ府に赴き、それから国境を越えようとする時に、一書をオランダ議会に送って、その冤《えん》を訴えて脱獄の理由を弁明し、且つ自分は祖国より迫害されたけれども、祖国を愛するの心情は、これに依って毫末も影響せられないという事を陳述した。
グローチゥスは国境を越えて仏国に走り、翌月その首府パリーに到着した。これ実に一六二一年四月の事である。
慧智なる夫人マリアは、夫の脱獄後もなお獄中に留っておって、自分の夫は激烈なる伝染病に罹っていると偽って、監守兵の室内に入り来るを避け、かくして一瞬間でも発覚の時機を延ばすようにと苦心したが、夫が脱獄してから、已《すで》に多くの時日を経過し、最早や国境を越えたのであろうと思われる頃、始めて典獄に自首して、夫を脱走させた罪科を乞うた。典獄は、マリアを質として禁錮し、もしマリア夫人を夫の代りに何時までも獄に繋《つな》いで置いたならば、グローチゥスは必ず情に牽《ひ》かされて、帰獄するに違いないと思っていたが、数月の後ち、オランダ議会は、マリア夫人の貞操を義なりとして、遂にこれを放免することとなった。夫人は出獄すると直ぐ夫の後を追うてパリーの謫居《たくきょ》に赴き、再び窮乏艱苦の間に夫を慰めて、その著書の完成を奨励したのである。
当時、仏王ルイ第十三世は、グローチゥスの不遇を憐んで、年金三千フランを授ける事に定められたけれども、国庫はその支払をしてくれなかった。故にグローチゥス夫婦は、故郷の親戚より送ってくれる僅かの金員、衣服、食品などに依って、ようやくに日々の生活を支え、その困苦欠乏は決して少なくはなかったのであるが、グローチゥス夫婦は、毫もこれがためにその志を屈することなく、互に励み励まされてその著述を継続した
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