「平戦法規論」という大文字の恩賚《おんらい》を受けて、永くその恵沢に浴することが出来るのは、全くグローチゥス夫人マリア(Maria)の賜物と言わざるを得ない。
フーゴー・グローチゥスはオランダの人で、一五八三年に生れた。幼時から穎悟《えいご》絶倫、神童と称せられ、九歳の時ラテン話で詩を作って、人々を驚嘆せしめ、十一歳にしてレイデン大学に入り、十五歳のとき既に書を著した。この年オランダの公使に伴われてフランスに赴いたが、国王アンリー第四世は、この少年の非凡なる天才を激賞して、黄金の頸飾をこれに授けて、「ここにオランダの奇蹟あり」(Voila le Miracle de la Holland!)と言われた事さえあった。十六歳のとき法学博士の学位を得、十七歳のとき弁護士となって、その得意の雄弁を法廷に振い、その名声は已に広く国内に喧伝した。二十歳を数えたとき、オランダ政府の国史編纂官に挙用され、二十四歳のとき、遂に検事総長の高官に任ぜられたが、かように迅速な立身はオランダにおいては前代未聞であると言いはやされたのである。
一六○八年、マリア・ファン・レイゲスベルグ嬢(Maria van Reigesberg)と結婚して、一家をなすこととなったが、前にも一言した如く、氏がこの好配偶を得たのは、実に国際法の起源史に重大なる関係を有する事になったのである。
一六一三年、氏はオランダ政府の命令を蒙って英国に使したが、その後ち帰国してみると、当時オランダにては、アルメニアン教徒とゴマリスト教徒との紛争激烈を極め、ために国内甚だ混乱の状態であった。
本来グローチゥスはアルメニアン派に属しておったが、当時オランダ総督たりしモーリス公は、ゴマリスト党に与《くみ》して、兵力をもって憲法を破毀し(Coup d' etat[#「etat」の「e」はアクサン(´)付き])、グローチゥスら反対派の人々を捕えて獄舎に下し、グローチゥスの財産は、ことごとくこれを没収して、氏をば終身禁錮の刑に処し、ゴルクム町より程遠からぬローフェスタイン城に幽閉してしまった。その幽閉中は、政府は食料として毎日僅に二十四スー(我四十五銭六厘ほど)を給与するに過ぎなかったが、氏の夫人マリアは、その夫が、自己の政敵にして且つ迫害者たる総督政府から供給を受けることを屑《いさぎよ》しとせずして、自らこれを差入れることとした。
グローチゥスの監禁は、始めの間は甚だ厳重であったから、その父といえども面会を許されなかったが、その後マリア夫人が面会を懇請するようになったとき、典獄は夫人に対《むか》って、もし一度び獄内に入るときは、再び外に出ることが出来ず、また一度び獄舎を出るときは再び帰獄することが出来ない。汝は夫と倶《とも》に一生を獄中で送ることを厭わぬかと聞いた。マリア夫人は、少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、直ちに右の条件を承諾し、自ら進んで囹圄《れいご》の人となり、それより我夫とともに、甘んじて一生涯を鉄窓の下に呻吟《しんぎん》しようとしたのであった。
当時グローチゥスは三十六歳であったが、終身禁錮の刑に処せられても、少しも失望することなく、その身は獄舎の中にありながらも、夫人マリアの慰藉と奨励とを受けつつ、一意専心思いを著述に潜めておった。かくて後には、典獄の許可を得て、ゴルクムなる友人たちに依頼して、一週に一度ずつ書籍を櫃《ひつ》に入れて交換出納し、また衣類などを洗濯のために送り出すことも許されるようになった。
夫人マリアが、その夫と獄中生活を共にするようになってから、もはや一年有半を経過した。その間、両人は、絶えず脱走の機会の到来するのを窺うておった。夫妻両人の毎週送り出す櫃は、何時も何時も獄吏どもには何らの興味をも与えない古本や、汚れた衣類ばかりであったので、歳月を経るに従って、これらの検査も次第に緩《ゆる》やかになって、終には櫃の蓋を開くことさえもせずに、これを通過させるようになった。
マリア夫人が、一日千秋の思いをして待っていた逃走の機会は、今や次第に近づいて来た。夫人はその機会のいよいよ熟したのを見て、夫に勧めて冒険なる脱獄を企てたのである。その方法として、夫人は監守兵の怠惰に乗じて、その夫を櫃の中に隠匿《いんとく》して、これを救い出すという画策を案出したのであるが、これを実行するのは、種々の困難と、多大の危険とが伴うことは言を俟《ま》たないことであるから、熟考の上にも熟考を要する次第で、軽々しく手を下すことが出来なかった。たとい平素は監守の任にある将卒の注意が緩んでいるとしても、もし一兵卒が櫃を怪しんだり、あるいは好奇心から偶然にもその蓋を開けて見るような事でもあるならば、折角の千辛万苦も、一朝水泡に帰して万事休するに至るは明瞭な事柄である。しかのみなら
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