常に会合していたのである。トーマス・カーライルなどもその中の一人であった。このような偉大にして且つ壮麗極りなき装飾を有している客間は、外になかったと言うておる。一夫人が名を求めずして、しかもタイムス紙の言うように、当時英国の大学者がことごとくここに集合するようになったのは、いわゆる「桃李|不レ言《ものいわず》、下自為レ蹊《しもおのずからけいをなす》」[#「」内の「レ」は返り点]である。
一八二六年、ロンドン大学が創立され、初めて法理学の講座が設けられることになった時、篤学なるオースチンは、聘せられてその講座を担任することとなった。しかし氏は極めて慎重な研究者であったから、その講義を始める前に、予めドイツの諸大学の法学教授法を調査しようと思い立って、夫人とともにドイツへ赴いた。しかるにドイツにおいても、サラー夫人の名は、ランケの「ローマ法王伝」や、ファルクの「ゲーテ人物論」やなどの、種々なる独逸書の翻訳によって、既に世界に喧伝されておったのである。この一事は、オースチンが、自分の取調をする上に、非常な便宜を与える事となって、ボン市においては史家ニーブル(Niebuhr)、文学者シュレーゲル(Schlegel)とか、哲学史家ブランヂス(Brandis)とか、愛国詩人アルント(Arndt)とか、考古学者ウェルケル(Welcker)とか、ローマ法学者マッケルデイ(Mackeldey)とか、国際法学者ヘフテルとか、その他当時ドイツにおける碩学と交を結ぶことが出来た。また調査その事についても、夫人の援助は莫大なるものであった。かくて、オースチン夫妻はドイツに逗留して、その法律研究法や教授法などの取調を行うこと一年余の後ちロンドンに帰り、オースチンはいよいよロンドン大学の講壇に立って、その多年|蘊蓄《うんちく》した学力を示すこととなった。
しかるに、初めの間は、満堂の聴講生があったけれども、その講義は、現今吾人が氏の著書に依っても知ることが出来るように、甚だ周密であって、普通の学生には、むしろ精細に過ぎるほどであったので、彼らはオースチンの講ずる卓越せる学理を到底|咀嚼《そしゃく》了解することが出来なかったために、聴講者は一人減り二人減り、講義が進行するに随って、その教室は漸々|寂寞《せきばく》を感ずるようになり、後には僅にその前列の机に、十人内外の熱心なる聴講生を遺すに過ぎないという有様になってしまったのである。しかしながら、これはいわゆる「大声不レ入二|俚耳《りじ》一」[#「」内の「レ一二」は返り点]で、通常の学生はオースチンの大才の真味を咀嚼することが出来なかったのであって、終局まで聴講した人々は、いずれも皆後年世界にその名を轟かした学者となった。いわゆる、偉人にあらずんば偉人を知ること能わずで、彼のジョン・スチュアート・ミルの如きは実に終局まで聴講した一人であった。
さて、前に述べたサラー夫人の序文は、その亡夫オースチンの性行を叙述し、その思想の高潔であったこと、その蘊蓄の深遠であったこと、その学を好む志の篤かったことなどを、情愛の涙を以て記載し且つその遺稿を公刊するに至った順序をも併せ記したものである。高潔婉麗の筆、高雅端壮の文、情義兼ね至り、読者をして或は粛然|襟《えり》を正さしめ、或は同情の涙を催さしめ、また或は一読三歎、案《つくえ》を打って快哉《かいさい》を叫ばしむるところもある。
今その一、二の例を挙《あ》げてみると、夫人サラーは、その夫が非凡の大才を抱きながら、生涯を貧困の中に終り、また高貴の地位をも得ることが出来なかったことを記すに際して、かかる事柄を記載するのは、決して世間に対しまたは夫に対して、不満の情を叙《の》べるのではないという事を明らかにするために、自分は、夫の学識は、世俗の尊重する冠冕《かんべん》爵位にも優って、なお偉大な物であると信じているという意見を仄《ほの》めかしている。
夫人はまたさきにオースチンが夫人に結婚を申し込んだ時の手紙の中には、氏は世の高貴なる栄達を希《ねが》わないという意を明瞭に記してあったのを、自分は承知して結婚を諾したのであって見れば、今に至って如何にしてこれに対して、不足がましき事が言えようかと記している。その文章は実に千古の名文であって、これを翻訳するよりは、むしろその原文を誦読する方が、麗瑰流暢《れいかいりゅうちょう》なる記述の真味を知ることが出来ようかと思う。依って今その一節を左に抄出する事にした。
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……Even in the days when hope is most flattering, he never took a bright view of the future; nor (let me here add) did he ev
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