た自由なる訳語をその著「西洋事情」中に採用せられ、同書が広く世に行われたために、竟《つい》にこの語が一般に行われるようになり、随ってこの新思想が、我国に伝播するの媒となったのである。して見ると、我国においては、自由なる語、自由なる思想の開祖は、実に福沢先生であると言うてもよかろうと思われる。
 その後ち明治五年に中村敬宇先生は、ミルのリバーチーを訳述して「自由之理」と題せられたが、この書もまた広く世に行われたものである。
 これらの書の行われた結果として、欧米において前世紀の後半に至るまで盛んに行われた自由主義、即ち自由の実現をもって人生就中政治の極致とする思想は、我国に輸入せられて、自由党なるものが興り、その首領たりし板垣伯は、岐阜において刺客の刃に傷つきたる時にも、かの「我に自由を与えよ、しからざれば我に死を与えよ」と言いしパトリック・ヘンリーの激語の反響の如くに、「板垣は死すとも自由は死せず」と叫ばるるに至ったのである。
[#改ページ]

 五九 共和政治


 大槻文彦《おおつきふみひこ》君の談によれば、共和政治という語は、大槻|磐渓《ばんけい》先生が初めて作られた訳語であるということである。
 箕作阮甫《みつくりげんぽ》先生の養嗣子省吾氏は、弱冠の頃、已《すで》に蘭語学に精通しておったが、就中《なかんずく》地理学を好んで、諸国を歴遊し、山河を跋渉《ばっしょう》して楽しみとしておった。
 その後ち和蘭の地理書を根拠として地理学上の著述をなし、「坤輿図識《こんよずしき》」と題してこれを出版した。氏がこの書を起稿しておった際オランダ語のレプュブリーク(Republiek)という字に出会い、その字義を辞書で求めたところ、君主のない政体をレプュブリークと称するとあった。しかし、国に君主がない政治ということは、当時の我国人に取っては殆んど了解の出来ない事であったので、これに対して如何なる訳語を用うべきであるかと思案の余り、氏は当時の老儒大槻磐渓先生を訪ねてその適当なる訳語を問うた。
 磐渓先生は対《こた》えて言われるには、国として君主のないのは変体ではあるが、支那にもその例がない事もないのである。かの周の時代に、※[#「※」は「勵−力」、第3水準1−14−84、205−2]王が無道の政を行って、国民の怨を買い、遂に出奔した時、周・召の二宰相がともに協力して、十四年の間国王なしの政治をした事が「十八史略」にも、
[#ここから2字下げ、「二相」の「二」をのぞいて「レ一二」は返り点]
於レ是国人相与畔。王出二奔※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]一。二相周召共理二国事一。曰二共和一者十四年(而王崩于※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]。)
[#ここで字下げ終わり]
と見えているから、国王のない政体は、共和政治というが宜しいであろうといわれた。
 省吾氏はその教に従うて、レピュブリークに共和政治という訳語を用いられ、これが今に至るまで襲用される事になったのである。
[#改ページ]

 六○ 「人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし」


 明治五年にマリヤ・ルーヅ事件なるものが起った。その事実の大要は次の如きものである。同年七月にペルー人ペロレーなる者が、清国|澳門《マカオ》において同国人二百三十人を買入れて奴隷とし、これを自己の所有船マリヤ・ルーヅ号に載せて本国に連れ帰る途中、横浜に寄港した。しかるに同港において、一名の支那人が海に飛び込んで脱れようとし、折柄碇泊中のイギリスの軍艦に救われ、英国公使はその処分を我政府に要求して来た。そこで我政府はマリヤ・ルーヅ号を抑留し、取調べの上ことごとく支那人を解放してこれを本国に送還した。船主ペロレーは形勢の非なるを見て脱走してその本国に帰り、自国政府に要請し、同政府より我政府に対《むか》って抗議を提出し、且つその損害賠償をも請求して来ることとなった。しかし論弁容易に終決せず、竟《つい》に露国皇帝の仲裁を乞うことととなったが、結局我政府の勝利となって、事件は漸《ようや》くその局を結ぶこととなった。
 しかるに、この仲裁裁判においてペルー政府は「人身売買は日本政府の公認するところである、日本政府は国民に対して芸娼妓などの人身売買を公許して置きながら、他国民に対してこれを禁ずるは、その理由なきものである」と抗争したのであった。これについて、当時の司法卿江藤新平氏の伝記なる「江藤南白」の著者は、実に左の如く記している。
[#ここから2字下げ]
我国は此事件に由りて「ペロレー」の非行を矯《た》め得たるも、同時に日本政府は今尚ほ斯《かか》る非行を公行する未開国たる事実を正式に世界に暴露したるの
前へ 次へ
全75ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング