結果を来せり。而して現在には条約改正の大事業を控へ、将来には文明国の伍伴に列せんとする目的を有する我帝国に取りて、至大の打撃たるは明白なる所、我当路者は之が為に痛心したること尋常ならざりき。
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実に当時の我当局者の苦慮痛心は尋常一様ではなかったであろう。なお同書に拠れば、時の司法卿江藤新平氏は、このたびの事件におけるペルー政府の抗議に刺激せられたること最も痛切であって、人を責めんと欲せば自ら正しからざるべからずとなして、熱心に人身売買の禁止を主張せられた。また当時神奈川県令としてマリヤ・ルーヅ事件に関与した大江卓氏の如きも、江藤氏と同一の趣旨の建白をした。依って政府は、明治五年十月二日太政官布告第二百九十五号をもって左の如き禁止令を発布することとなった。
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一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今|可為《たるべき》厳禁事。
但双方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ尤奉公取続候者ハ証文可相改事。
一、娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テノ賃借訴訟総テ不取上事。
右之通被定候条|屹度《きっと》可相守事。
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この法令の発布はマリヤ・ルーヅ事件発生後僅に三箇月である。そして右の法令の第一項に「古来制禁ノ処」と書いたのはマリヤ・ルーヅ事件の抗議に対して特に明言したのであるや否やは知らぬが、ちょっと意味ありげに聞こえる。
なお右の法令施行に関して、江藤司法卿は十月九日に司法省第二十二号をもって左の如く達した。
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本月二日太政官第二百九十五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可心得事。
一、人身ヲ売買スルハ古来ノ制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金ノ全額ヲ可取揚事。
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。
但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラス。
一、人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事。
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勇断改法家なる江藤新平氏の面目は右の法令に躍如として現われている。
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六一 フランス民法をもって日本民法となさんとす
維新後における民法編纂の事業は、明治三年に制度局を太政官に設置せられたのに始まったものである。当時江藤新平氏は同局の民法編纂会の会長であったが、同氏は「日本と欧洲各国とは各その風俗習慣を異にすといえども、民法無かるべからざるは則ち一なり。宜《よろ》しく仏国の民法に基づきて日本の民法を制定せざるべからず」という意見を持っておった。右は同氏の伝記「江藤南白」に掲げてあるところであるが、その「仏国の民法に基づきて」という言葉の意味は、如何なる程度においてフランス民法を採ろうとしたものであるか、如何様にも解せられるが、これを江藤氏の勇断急進主義より推し、また同書の記事に拠って見ると、敷き写し主義に依って殆んどそのままに日本民法としようとせられたもののようである。初め制度局の民法編纂会が開かれた時、箕作麟祥博士をしてフランス民法を翻訳せしめ、二葉《によう》もしくは三葉の訳稿なるごとに、直ちに片端からこれを会議に附したとの事である。また江藤氏が司法卿になった後には、法典編纂局を設け、箕作博士に命じてフランスの商法、訴訟法、治罪法などを翻訳せしめ、かつ「誤訳もまた妨げず、ただ速訳せよ」と頻《しき》りに催促せられたとの事である。箕作博士が学者としての立場は定めて苦しい事であったろうと思いやられる。しかも江藤氏はこの訳稿を基礎として五法を作ろうとし、先ず日本民法を制定しようとして「身分証書」の部を印刷に附した。磯部四郎博士の直話に依れば、当時の江藤司法卿の説は、日本と西洋と慣習も違うけれども、日本に民法というものが有る方がよいか無い方がよいかといえば、それは有る方がよいではないかという論で、「それからフランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい。そうして直ちにこれを頒布しよう」という論であったとの事である。
この話は「江藤南白」にも載せてあり、また我輩もしばしば磯部博士から直接に聞いたことがある。
今よりしてこれを観れば、江藤氏の計画は実に突飛極まるものであって、津田真道先生はこ
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