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 五八 自由


 安政四年に、米人|裨治文《ブリッヂメン》が上海において著した「聯邦史略」という本に、始めて freedom または liberty の訳語として自主、自立の二字が用いられている。即ちこの書中に載せてある「独立宣言」の訳文中に、左の一節がある。
[#ここから2字下げ、「一定」の「一」をのぞいて文中の「レ一二」は返り点]
蓋以人生受レ造、同得二一定之理一。己不レ得レ棄、人不レ得レ奪、乃自然而然。以保二生命及自主自立一者也。
[#ここで字下げ終わり]
 この書は、我文久年間に続刻せられて、長崎に伝来したものであるが、これを見た者は素《もと》より少数人であった。加藤弘之先生の直話に拠れば「自由」という訳字は、幕府の外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎という人が案出したのが最初であるという事であるが、文久二年初版慶応三年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎著)には、既に自由という訳字を用いている。しかるに、福沢諭吉先生が慶応二年に出版せられた「西洋事情」にも「自由」という訳字を用いられ、それより広く行わるるようになったが、古来一定の意義を有する通用語をかつて日本になかった思想に当てようとしたのであるから、先生もその説明によほど苦心されたことは次に引用する文章でも明らかに分ることである。
 同書第一巻、政治の部の註に、
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本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当《てきとう》ノ訳字アラズ。
[#ここで字下げ終わり]
といい、またこの後ち明治三年に出版の「西洋事情」第二編の例言中に、
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彼ノ常言モ、我耳ニ新シキコトアリテ、洋書ヲ翻訳スルニ臨ミ、或ハ妥当ノ訳字ナクシテ、訳者ノ困却スルコト、常ニ少カラズ。
[#ここで字下げ終わり]
といい、特に「リベルチ」の訳語「自由」は、「原意ヲ尽スニ足ラズ」とて、その意義を邦人に説明せんと試みられた。
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第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。
自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟《キウクツ》ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具《ソナ》ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。
又上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構《サシカマヒ》ナシト云フコトナリ。譬《たと》ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。
又、御免《ゴメン》ノ場所、御免ノ勧化、殺生御免ナドイフ御免ノ字ニ当ル。
又好悪ノ出来ルト云フコトナリ、危キ事ヲモ犯シテ為サネバナラヌ、心ニ思ハヌ事ヲモ枉《ま》ゲテ行ハネバナラヌナドト、心苦シキコトノナキ趣意ナリ。
故ニ、政事ノ自由ト云ヘバ、其国ノ住人ヘ、天道自然ノ通義[#ここに「下ニ詳ナリ」という注意書きが入る]ヲ行ハシメテ、邪魔ヲセヌコトナリ。開版ノ自由ト云ヘバ、何等ノ書ニテモ、刊行勝手次第ニテ、書中ノ事柄ヲ咎《とが》メザルコトナリ。宗旨ノ自由トハ、何宗ニテモ、人々ノ信仰スル所ノ宗旨ニ帰依セシムルコトナリ。千七百七十年代、亜米利加騒乱ノ時ニ、亜人ハ自由ノ為メニ戦フト云ヒ、我ニ自由ヲ与フル歟《か》、否《しから》ザレバ死ヲ与ヘヨト唱ヘシモ、英国ノ暴政ニ苦シムノ余、民ヲ塗炭《とたん》ニ救ヒ、一国ヲ不覊独立ノ自由ニセント死ヲ以テ誓ヒシコトナリ。当時有名ノフランキリン[#「フランキリン」に傍線]ガ云ヘルニハ、我身ハ居ニ常処ナシ、自由ノ存スル所即チ我居ナリトノ語アリ。サレバ、此自由ノ字義ハ、初編巻之一、第七葉ノ割註ニモ云ヘル如ク、決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。学者宜シクコレヲ審《つまびらか》ニスベシ。
[#ここで字下げ終わり]
 これに依りて観れば、支那においては、これより以前既に「自主」「自専」「自立」などの訳字があり、また我邦においても、加藤先生は慶応四年出版の「立憲政体略」には「自在」と訳し、「行事自在の権利」「思、言、書自在の権利」「信法自在の権利」などの語を用いられ、同年出版の津田真道先生の「泰西国法論」にも「自在」と訳し「行事自在の権」「思、言、書自在の権」などの語を用いられているが、福沢先生は不満足ながらこれより先き既に案出せられ
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