いたところであって、彼はその守成策として、主として宗教的典礼を制定して、民をしてこれに依らしめることに努めたものと思われる。一体、神威を仮りて法の力を強くし、これに依って粗野不逞の人民を規則の下に統率制馭しようとすることは、古代の英雄の慣用手段であって、彼のハムムラビやモーゼやミノスやリクルグスなどの如き大立法者もまたこの手段を執っているのである。
伝うるところに拠れば、ヌーマ王はピタゴルスの哲学を修めたともいうが、またピタゴルスという人の教えを受けて宗教的礼法を定めたものだともいう。とにかく、表向きにはヌーマはローマの郊外なる「水神の森」において女神エジェリヤに会い、その垂教に依って礼法を定めたのであると、自ら称していたということである。
かかる託言から生れ出たのは、実に次の如きヌーマ、エジェリヤの恋物語である。ヌーマ王は女神エジェリヤの切なる寵愛を受けて、しばしばかのカメーネの林中にて人目を忍ぶ会合を行い、ここにて礼法の制定について種々女神の教えを受けておったのであったが、人生限りあり、歓楽遂に久しからずして、ヌーマ王は竟《つい》に崩御した。女神エジェリヤは始めて人界の哀別離苦を知り、天にあこがれ地にかこちて、幾夜この森中に泣き明した。果ては泣きの涙にその身も溶けて林中の一湧泉となり、悲痛の涙は滾々《こんこん》として千載に尽くることなく、今もなお一つの清泉となって女神像下に流れ出《い》づるもの、即ちこのエジェリヤの涙泉であると伝えている。
回顧すれば既に十有余年の前、明治三十二年の秋風吹き初むる頃、我輩がローマに客となっておった折の事であるが、一日我輩は岡田朝太郎博士ら数名とともにこのエジェリヤの遺跡というを訪ねた事があった。清冽《せいれつ》掬《きく》するに堪えたる涙泉の前に立って、我輩は巻煙草を燻《くゆ》らしながら得意にエジェリヤの昔譚《むかしものがたり》を同行の諸氏に語りつつ、時の移るを忘るるほどであったが、いざ帰ろうという時になって、先ほど煙草の口を切ったはずのナイフの見えぬのに気が付いた。ここか、かしこかと、残る隈なく一同で尋ねて見たけれども、遂に見当らぬので、結局涙泉の中に落したのであろうということに定った。この時岡田博士、即座に、
エジェリヤがワイフ気取りの聖森《ひじりもり》
ナイフ落してシクジリの森
[#改ページ]
四五 伊達氏の法典「塵芥集」
「塵芥集」とは奥州の伊達家十三代稙宗が天文五年に制定した法典の名である。稙宗《たねむね》は勇武絶倫の将であって、しばしば隣国と戦って大いに捷《か》ち、将軍足利義稙より偏諱《へんき》を賜うて稙宗と名乗り、奥州の探題となって東北を威服した人である。稙宗老年に及んで治平の策を講じ、天文二年に質物の法を定め、同五年に家老評定人らと議して式目一百六十九条を定めた。今伊達家に存するこの式目の原本には「塵芥集」という題号が附けてあって、「仙台文庫叢書」第二輯にも収められている。同叢書の出版者作並清亮氏の序に拠れば、この題号は式目制定当時につけられたように見えるが、さるにても、何故かかる重要なる文書にかかる軽微なる名を附けたものであろうか。色々と考えてみたが、何分了解することが出来ぬ。「大日本古文書」家わけ第三、伊達家文書巻之一に収めたものは、表紙に「稙宗様御家老 御成敗式目」とあり、条目の始めに「塵芥集」と題してあるが、この原本は後に写したものらしいから、「御成敗式目」とは「貞永《じょうえい》式目」に倣《なろ》うた後ちの称呼らしい。
或はこの書の一本の奥書に、
[#ここから2字下げ、「此一部」の「一」をのぞき、「レ一二」は返り点]
此一部|者《は》、伊達十三代稙宗朝臣|所レ令レ録《ろくせしむるところ》、在判|并《ならびに》家臣之連判、誠《まことに》可二重宝一之書、頃村田善兵衛藤原親重令二進上一之処、破壊之間、令[#返り点の「下」あり]二畑中助三藤原経吉一新写[#返り点の「上」あり]、加二奥書一也。
于時延宝七年季冬朔日 伊達十九代左少将藤原朝臣綱村(花押)
[#ここで字下げ終わり]
とあるに依り、一旦塵芥に埋れたる反古の如きものであったから、後に至ってかく名附けたものであろうと言う人もあるが、それにしても、祖先の定めたる治国の宝典に、子孫または家臣がかくの如き題号をつけるとは、合点の行かぬことである。
この法典には二つの特色がある。その一は、「塵芥集」は全部一百六十九条よりなり、「貞永《じょうえい》式目」に比してその条数三倍以上であるから、武家の法典中最も浩瀚《こうかん》にして且つ最も周密なるものであること。その二は、この条目を仮名で書いてあることである。当時の法令は鎌倉風の異体の漢文多く、仮名を交えたものでも、漢字を用いることが極
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