前に出来たものであるとのこと。またドシアダス(Dosiadas)の書いている娼妓の事は、石壁法に記してあるものより余程進歩したものであるから、同氏が書を著わした年即ち紀元前二八〇年より以前に制定せられたものであるとのこと。その他、形式主義の未だ起っておらぬこと、その規定の体裁が因果法であって命令法でないことなど、この石壁法は頗る原始法の属性に富んでいるが、しかしまた一方よりこれを観るときは、私法規定の成文法となっていること、規定の抽象的なること、道徳法律の混合しておらぬことなど、既に原始的法律の性質を脱しているもののように見える点も少なくはない。しかし、この法律の古いことを説く学者の言うところに依れば、クレート島は昔から法律をもって名高い所であって、ミノスが神から法律を受けたという伝説があり、ソロン、リクルグスの如き大立法家もクレート島に渡って法律を調べたといい、またリクルグスは同島から詩人を聘《め》して法律を作らしめたという伝説もある位であるから、古代より法律思想は余程進んでおったものである。故にこれらの特徴は、決してこの法律の古いことを妨げるものではないと言うておる。

  五 石壁の内容

 ゴルチーンの石壁法は、前にも言うた通り十二欄に分ってあるから、往々これを「ゴルチーン十二表法」と号する学者もある。この石壁法は一個の法典の如きものであるけれども、国法の全部または一種類の法律の全部を含んでいるものではない。この法律の内容は私法的規定であって、ことに親族法、相続法および奴隷法に関するものが多い。故に純刑法その他公法的規定が全く掲げられておらぬばかりでなく、私法さえもその一部に限られている。これは多分この法律が裁判所の壁法であるから、その裁判所の管轄に属している事件、即ちこの場合においては人事法だけを規定したものであろうということである。
 かくの如く、石壁法は私法の一部だけを掲げたものであって、その他の部分は旧法をそのままに存したものであり、またこの石壁法中にも、旧法をそのままに成文法にしたものと、旧法を改めたものとがあることは、法文中にも現われている。
 なおゴルチーン石壁法について悉《くわ》しく知ろうと思う者は、次の書に就いて読むがよかろう。
[#ここから2字下げ]
Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き] und Zitelmann, Das Recht von Gortyn.
Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernhoft[「o」はウムラウト(¨)付き], Die Inschrift von Gortyn.
Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

 四四 エジェリヤの涙泉


 ローマの市外、程遠からぬ近郊に、その名もゆかしき「神聖の森」(Bosco Sacro)という一つの森が今なお保存せられてある。千年の老樹は鬱蒼《うっそう》として昼なお暗きまでに繁茂しているが、その一部分の懸崖をなしている処に、瓦磚《がせん》を積み上げて作られた一つの瓦壁がある。この瓦壁の中央のやや凹《くぼ》みたる処に横臥したる一女神の像を安置してあるが、鮮苔《せんたい》いたずらに壁上に青くして千載の昔を忍ばしむるが如く、神像の手と首は既に欠け失われて、うたた世運の変遷を歎ずるが如くに見えている。女神像の下より珊々《さんさん》の音を立てて流れ落つる三条の清水、これが即ち世に名高いエジェリヤの涙泉で、神像は言うまでもなく、エジェリヤの像である。
 宗教的立法に依って後の大ローマ帝国の基礎を固めたかのヌーマ王が、女神エジェリヤの恋愛を受けてしばしばカメーネの森(水神の森)で密会したという神秘的恋物語の旧跡は即ちこのBosco Sacroであって、ここでヌーマは女神の教に依って、その礼法を制定したのだと今に至るまで言い伝えられている。
 ローマの建国は、たといロムルスの兵威と戦勝とに依ること多かったとしても、これに次ぐにヌーマの立法をもってするに非《あら》ずんば、到底他日の世界帝国の基を開くことが出来なかったに相違あるまい。兵に依って創業し、法に依って守成するものは、その国必ず永く栄える。ヌーマのローマにおけるが如きも、また恐らくはその一例となすべきであろう。
 ヌーマはもと被征服者たるサビーニ人であった。しかるに初代ロムルス王の歿した後ち、市民の黙止《もくし》難き推戴に依って遂に王位に即いたが、勇悍《ゆうかん》にして粗野なる人民を統御するには、信仰と法制との力に依らねばならぬとは、彼が夙《はや》くより気附
前へ 次へ
全75ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング