においてレートホイズ河から引いた水車溝の中に、偶然にも古文字の彫刻してある壁石が現われた。その石は大なる石壁の一部であるように見えたが、水車の持主のマノリス・エリヤキス(Manolis Eliakis)が、この由をフレデリコ・ハルブヘール博士(Dr. Frederico Halbherr)に話すと、博士は非常に悦んで、直ちにその壁の発掘およびその古文字の謄写に着手し、秋に至ってエルンスト・ファブリチウス博士(Dr. Ernst Fabricius)の協力を得て、竟《つい》にその石壁の全部の発掘を終り、また石壁に彫刻せられている法文の謄写を完了するに至った。しかのみならず、さきに発掘せられた数個の石片は、実にこの石壁の破片であって、トノンの発見した石片の文は、その法律の第五十八条乃至第六十条であり、アウッスーリエーの発見した二片は、第三十九条と第四十八条であるということが分ることとなった。しかしながら、この石壁中にはなお数個の石片の欠失しているものがある。それは、多分さきに水車溝を掘った時に取り除いて、その後に失われたものであろう。この欠損あるがために、法文の全部を回復することの出来ぬのは残念なことである。
 この石壁法の法文を先ず世に公にした者はファブリチウス博士である。氏は「アテネ、ドイツ考古学雑誌記事」(Mitteilungen des deutschen archaologischen[二つ目の「a」はウムラウト(¨)付き] Instituts zu Athen.)にその法文を掲載したが、これに亜《つ》いでイタリヤのドメニコ・コムパレッチ教授(Prof. Domenico Comparetti)もまたハルブヘールおよびファブリチウス両氏と協議の上イタリヤにおいてこれを公にした。かくして、この石壁法は、爾来欧洲諸国の学者の研究の好題目となったが、ことにドイツにおいてはこれに関する有名な著書も多く現われた。その考証の結果は多少の異同はあるが、諸説の一致するところに依って、この石壁法の大体を述べてみれば、次の如きものである。

  三 石壁法

 発掘された石壁は、元《も》と直径三十三メートルばかりあった円形の大建築物の周囲壁であって、その内面に法文が牛歩状(bustrophedon)に彫り付けてあるのである。牛歩状とは右端より始めて横線に左へ走り、左端で旋回して右に進み、右端でまた旋回して左へ進む書き方をいうのであって(ダレストは左より右へ進むのであると言うておる。)(Dareste, La Loi de Gortyne)、あたかも牛が田の畦《あぜ》を鋤《す》くときの歩みのように書くことをいい、よほど古い書き方であるということである。
 この彫刻の高さは一メートル七十二サンチで、ちょうど通常人が立って読むに都合のよい位であり、横幅は全体で九メートルばかりである。法文は壁石の合せ目にかかわらず彫刻してあって、全部を十二の縦欄に分ち、各欄毎に五十三乃至五十五行を刻し、各行毎に二十字乃至二十五字があって、文字には赤色の色彩を入れて明白に読めるようにしてある。
 右の円館(Tholos)は他の大建築物の一部であったもののようであるが、その北側にも石壁に法律を彫り附けてあるものがある。しかしこれは後で建てたものらしい。当時は法律を銅板に彫り附けて公布する例があったが、この円館は裁判所であったから、その壁に法律を彫り附けてこれを公示してあったものである。

  四 石壁法の年代

 この石壁法は何人《なんぴと》の作ったものであるか、また如何なる時代に出来たものであるかについては、法文または建物の模様においてこれを確かに証明すべきものがないから、学者の説も未だ一定してはおらぬ。例えば、キルヒホフ(Kirchhoff)はクレートの貨幣の比較からこれを考証して、紀元前五世紀の半ばより古いものではないといい、多数の学者は紀元前四〇〇年位のものであろうといい、またダレストは、法文の書体より紀元前六世紀の頃に制定せられたものであるといい、ブュヒレル(Franz Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き])、ティーテルマン(Ernst Zitelmann)両氏は、プラトーンの「法律論」の後ち「十二表法」の前に出来たもので、エフォロス(Ephoros)の「クレート誌」より二、三代前に出来たものであると言うておる。
 この法律の年代の考証論は非常に興味の多いものであるが、また非常に細密の点に渉《わた》るものであるから、これを夜話の題とするには不適当である。が、今ここに素人《しろうと》にも解りやすい一、二点を例示すれば、アリストーテレスと同時代のエフォロスの「クレート誌」には、石壁法で始めて定められた法則の事を書いているから、アリストーテレス時代より
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