ニなら訴を起すまでもない、もしその百磅を取り返したいならば、もう百磅だけ改めて亭主に預けるがよい」という。百姓は仰天《ぎょうてん》し、「飛んでもないこと、渠奴《あいつ》のような大盗人に、百磅は愚か、一ペニーたりとも渡せるものか」と、始めはなかなか承知すべき気色《けしき》もなかったが、遂にカランの弁舌に説き落され、渋々ながら、彼の差図に任せて、一人の友人を証人に頼み、再び例の宿屋に行った。復《ま》た談判に来おったなと、苦り切っている亭主の面前に、百磅の金を並べて、さて言うよう、「己は元来物覚えの悪い性分だから、昨日百磅預けたというのは、あるいは思い違いかも知れない。とにかく今度こそはこの百磅を確かに預って置いて下され」と懇《ねんご》ろに頼む。亭主は案に相違し、世にはうつけ者もあればあるものと、独り心に笑いながら、言うがままにその金を受け取った。農夫はカランの許《もと》に立ち帰り、盗人に追銭とはこの事と、頻《しきり》にふさぎ込んでいる。カランは打笑い、「それでは、今度は亭主が独りいるところを見済し、こちらも一人で行って、先ほどの百磅を返してくれと言うべし」と教えた。その教えの通りにして見たところが、後の百磅には証人もあること故、拒んでも無益と思ったか、亭主も素直にこれを渡した。農夫は再びカランの許に立ち帰り、これでは元の黙阿弥で何にもならぬと言う。カラン手を拍って、「さてこそ謀計図に中《あた》った。さあ、今度こそは前の友人と同道して、宿屋に押し懸け、この者の面前で預けて置いた百磅の金、さあ、たった今受取ろうと、手詰の談判に及ぶべし。それでも渡さずば、その時こそはその友人を証人として訴え出《い》でるのだ」と言う。農夫は、ここに至って始めて氏の妙計を覚り、小躍《こおど》りして出て行ったが、やがて満面に笑を湛《たた》えて、ポケットも重げに二百磅の金を携え帰った。
法学法術兼ね備わる者でなくては、法律家たる資格がない。カランが、無証事件を変じて有証事件となし、法網をくぐろうとした横着者を法網に引き入れた手際《てぎわ》は、実に法律界の張子房《ちょうしぼう》ともいうべきではないか。
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三五 “He shakes his head, but there is nothing in it!”
カランの法術について思い出した事がある。明治十三年、スウィスの首都ベ
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