川幕府の最高等法院で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行らが、最も重大なる訴訟を評議裁判する所であった。
「棠蔭秘鑑《とういんひかん》」に拠れば、評定寄合《ひょうじょうよりあい》は、寛永八年二月二日、町奉行島田弾正忠の邸宅に、老中が集会して、公事《くじ》の評定をしたに始まったようである。その後ちは、酒井|雅楽頭《うたのかみ》、酒井讃岐守、並に老中の邸で会議を開いたのであったが、寛永十二年十一月十日に評定衆の任命があり、同じ年の十二月二日からは評定所で会議を開き、それより毎月二日、十二日、二十二日をもって評議の式日と定めた。
「甲子夜話《かつしやわ》」に依れば、評定所の起原は、国初の頃、町中に何か訴訟事がある時に、老職以下諸役人の出席を乞うて、裁許を願うたのに始ったのである。この当時は、上述のように私人より願うて評定してもらったから、食物なども皆町中より持運び、また役人たちの給仕には、皆遊女を用いたのであった。しかるに、その後ち官家の制度も漸々《ぜんぜん》と具備するようになり、官から評定所を建築し、飲饌《いんせん》も出し、給仕には御城の坊主を用いるようになったのである。また遊女を評定所へ出す際には、船に乗せて往来させたのであったが、その船には屋根がなくて、夏は甚だ暑いから、その船に屋根を造る事を願い出でて許されたのである。屋根船はこれから始まった。また遊女のことを「サンチャ」と称していたから、屋根船は旧《ふる》くは「サンチャ船」というたそうである。しかし現今では、この名称を知る人は稀になった。また評定所の傍の岸に、船を着ける場所があって、そこを「吉原ガンギ」というたのは、昔遊女の船を繋《つな》いだ処だからだという。(当時の吉原は、現今の数寄屋町にあったそうだ。)
この話にあるように、神聖なる最高法院の給仕に遊女を出したのは、現今の考えからは殆んど信じ得られない事であるが、当時の遊女に対する考えは現今とは全く異なっておった。
遊女を評定所の給仕として差出したことについて「異本洞房語園」に次の如く記している。
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
吉原開基の砌《みぎり》より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人|宛《ずつ》、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥《たしか》
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