ーウイック伯(Earl of Warwick)に嫁したので、バークレー領は近親の男子が相続した。しかるに、後に至ってエリザベスの子孫が、この相続権を争ったのがそもそもこの訴訟の始りで、後には法廷の弁論のみではあき足らずして、干戈《かんか》に訴えるという大騒動となり、一四六九年には、双方各々五百人ばかりの勢を率《ひき》いてニブレー・グリーン(Nibley Green)の野に戦った。一方の大将はエリザベスの孫に当るタルボット(Talbot)であったが、この戦に敗死し、従兵死する者百五十、傷つく者三百に及んだ。しかるに、タルボットの親戚は、なおその訴訟を続け、盛んに権利を主張しておったが、ジェームス一世の時に至って始めて判決が下り、原告の敗訴と決定して、領地は第十一代のバークレー侯に帰したのである。
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 二八 矛盾の申立


 幕府の能吏渡辺大隅守綱貞が町奉行であった時に、或医者が訴訟を起した。その申立は、「全治の上は金五両の謝礼との約束にて、ある癩病人を治療し、既にその効を奏したにもかかわらず、相手方は謝儀を出すことを拒むに依り、宜しく御裁断を仰ぐ」というのであった。
 大隅守は被告に向い、医者の申立の通り、その方の病は平癒と見受けるぞ、即座に約定金《やくじょうきん》を差出すが宜かろうと説諭した。ところが被告は頭を白洲の砂に埋め、誠に恐入ったる義ながら、永の病気に身代《しんだい》必至と不如意《ふにょい》に相成り、如何様にも即座の支払は致し難き旨を様々に陳謝した。
 大隅守は更に押返して、「その方、大切なる病の治療を頼みながら、全治の今日となって薬料支払を渋るとは不届千万、一身を売ってなりとも金子を調達せよ」と言うに、「仰せは畏って御座りますれど、何分にも悪病の事とて、雇われようにも雇い手これなく、誠に致方なき次第」と如何にも困り入った様子である。
 大隅守もいささか憐れを催して、更に医者に向い、「今聞く如き次第なるぞ。その方この者の請人《うけにん》に立ちて、いず方へなりとも住み込ませ、その賃銀を謝礼に取りては如何に」と穏かに申渡したが、医者はなかなか承服しない。「このような穢らわしき病人を雇う者が、いずくに御座りましょうや。唯々|約定金《やくじょうきん》差入の御申渡を」と、強弁の言葉未だ終らぬに、大隅守はきっと威儀を正し、「さてさてその方は矛盾の譫言《た
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