sあなが》ち怪しむには足るまい。
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子のあたま、ぶった柱へ尻をやり
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という川柳があるが、この法の精神を説明し得たものといってもよかろう。
刑罰を正義の実現であるとする絶対主義は、非常に高尚な理論で、目をもって目に報《むく》い、歯をもって歯に報《むく》ゆる復讐主義は、甚だ野蛮の思想であるかの如く説く学者も多いが、元来絶対主義論者が信賞必罰は正義の要求であるとするのも、復讐主義において害を加えたる木石禽獣または人類に反害を加えて満足するのも、畢竟《ひっきょう》同じ心的作用即ち人類の種族保存性から来ているのである。この二主義が同一系統に属するものであるという事は、絶対主義の主唱者とも言うべきカントが、刑法は無上命令(Categorischer Imperativ)なりと言い、たとい国を解散すべき時期に達したとしても、在監中の罪人はことごとく罰せねばならぬと論じ、同時にまた刑罰は反座法(Jus talionis)に拠るべしと言ったのでも知る事が出来よう。
また一方において、相対主義論者は、刑罰は社会の目的のために存しているという。なるほどそれには違いないが、その目的の中には、直接被害者たる個人、およびその家人、親戚並に間接被害者たる公衆の心的満足というものをも含んでいることを忘れているのは、確かに彼らの欠点である。形こそ変れ、程度こそ異なれ、木を斬罪《ざんざい》にし、牛を絞刑《こうけい》にし、「子のあたまぶった柱」を打ち反《かえ》す類の原素は、文明の刑法にも存してしかるべきものである。いわゆる「正義の要求」とは、この心的満足をいいあらわしたものではあるまいか。学者は、往々この情性を野蛮と罵《ののし》って、一概にこれを排斥するけれども、これ畢竟刑法発達史を知らず、且つまたこの報復性は、種族保存に必要な情性であって、これあるがために、権利義務の観念も発達したものであることを知らないからである。
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二六 死の骰子《さいころ》
ドイツの帝室博物館に皇帝よりの御出品として「死の骰子」(Der Todes Wurfel[「u」はウムラウト(¨)付き])という物が陳列してある。第十七世紀の半ば頃、この骰子《さいころ》をもって一の疑獄が解決せられたという歴史附の有名な陳列品である。
事実は次の如くである。或一人の
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