B故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、ザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのである。延期断行の論争は頗る激烈であって、今よりこれを観れば、随分大人気ない事もあったけれども、その争議の根本は所信学説の相違より来た堂々たる君子の争であったのであるから、この争議の一たび決するや、両派は毫も互に挟《さしはさ》む所なく、手を携えて法典の編纂に従事し、同心協力して我同胞に良法典を与えんことを努めたるが如き、もってその心事の光風|霽月《せいげつ》に比すべきものあるを見るべきである。
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 九八 ザヴィニー、ティボーの法典争議


 第十九世紀の末に我邦に起った法典実施延期戦は、あたかも同世紀の初めにドイツで起ったザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質を同じうしているということは、前にも述べたところである。
 第十九世紀の初めにおいて、ドイツ諸国はナポレオンの馬蹄に蹂躙《じゅうりん》せられて、殆んどその独立を失おうとするに至ったが、この時局に慨して、当時ドイツの学者政治家の間には、ドイツの復興策として盛んに民族統一(Volkseinheit)の必要を唱導する者が多かったのである。その説くところに曰く、我らゼルマン民族は、欧洲大陸の中部に国を建て、しかもしばしば他国の侵略を蒙って、動《やや》もすればその独立の基礎を揺がされようとするのは、そもそも何故であるか。これ畢竟諸邦割拠して、民族の共同一致を欠くためではないか。故に、将来我らの独立を確実に維持すべき唯一の良策は、大いに民族的思想を発揮して、ゼルマン民族統一を図るより外はないというのであった。
 一八一四年、ナポレオンがライプチヒの戦に敗れてその本国に潰走した時、当時ハイデルベルヒの大学教授であったティボー(Thibaut)は、ドイツ兵の同市を経て続々仏国に向って進軍する有様を看て、これ正に我ドイツ諸国の独立を回復すべき機運の到来したものであると歓喜し、すなわち筆を呵して堂々ドイツ復興策を論じ、僅々二週日にして一書を公にするに至った。このティボーの著書こそ実にドイツにおける普通民法の必要(Ueber die Nothwendigkeit eines allgemeinen buergerlichen Rechts fuer Deutschland.)と題する小冊子であっ
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