Zの両日にわたったが、延期派の英法学者では元田肇《もとだはじめ》君、岡山|兼吉《けんきち》君、大谷|木備一郎《きびいちろう》君等の法学院派、その他関|直彦《なおひこ》君、末松|謙澄《けんちょう》君等が発議者の重《おも》なる者であった。断行派の仏法学者では井上|正一《しょういち》君、宮城|浩蔵《こうぞう》君、末松三郎君等が最も有力なる論者であった。かくて両軍衆議院の戦場で鎬《しのぎ》を削った結果は、延期説賛成者百八十九に対する断行説賛成者六十七で、とうとう延期派の大勝に帰した。
 衆議院で可決した商法施行延期法案は貴族院に回付されて、十二月二十日に同院の議に附せられ、当時我輩も加藤弘之博士等とともに延期論者中に加わったが、同院においても激論二日間にわたった末、延期説賛成者百四に対する断行説賛成者六十二で、これもまた延期派の大勝に帰してしまった。かくて、同年法律第百八号をもって商法の施行期限を明治二十六年一月一日即ち民法施行と同期日まで延ばすこととなったのである。

  六 民法延期戦

 既成法典の施行延期戦は、商法については延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期日と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を俟《ま》ち、捲土重来して会稽の恥を雪《すす》ごうと期したのは尤も至極の事である。また延期派においては、既にその第一戦において勝利を占めたことであるから、この勢に乗じて民法の施行をも延期し、ことごとく既成法典を廃して、新たに民法および商法を編纂せんことを企てた。故にその後は何となく英仏両派の間に殺気立って、「山雨来らんと欲して風楼に満つ」の概があった。果せるかな。明治二十五年の春に至って、江木衷《えぎちゅう》、奥田|義人《よしと》、土方寧《ひじかたやすし》、岡村輝彦、穂積|八束《やつか》の諸博士を始め、松野貞一郎君、伊藤|悌次《ていじ》君、中橋徳五郎君等法学院派の法律家十一名の名をもって「法典実施延期意見」なるものが発表せられた。右の意見書は、翌年一月一日より施行さるべき民法の実施期日を延べ、徐《おもむ》ろにこれを修正すべしとの趣意であったけれども、その延期の理由として挙げたる七箇条は、民法を根本的に攻撃した随分激烈な文字であったことは、その題目を一見してもこれを知ることが出来る。曰く、
[#ここから2字下げ]
一 新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。
一 新法典ハ憲法
前へ 次へ
全149ページ中133ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング