ったからである。
しかるに第一帝国議会は、民法商法の発布せられた年の十一月に開会せられ、商法の実施期は、その後ち僅に一箇月の近くに迫っていたから、この法典を実施すべきや、将《はたま》た延期すべきやは第一帝国議会の劈頭《へきとう》第一の大問題となった。これより先き、大学の卒業生よりなる法学士会は、政府が法典の編纂を急ぎ、民法商法は帝国議会の開会前に発布せらるべしとの事を聞いて、明治二十二年春期の総会において、全会一致をもって、法典編纂に関する意見書を発表し、且つ同会の意見を内閣諸大臣および枢密院議長に開陳することを議決した。その意見書には法典の速成急施の非を痛論してあったが、これが導火線となって、当時の法律家間には、法典の発布、実施の可否が盛んに論争せられた。英仏両派の論陣はその旗幟《きし》甚だ鮮明で、イギリス法学者は殆んど皆な延期論を主張し、これに対してフランス法学者は殆んど皆な断行論であった。ただ独り富井・木下の両博士がフランス派でありながら、超然延期論を唱えられておったのが異彩を放っておった位である。我輩が「法典論」を著わしたのも当時の事で、法学士会の意見書の全文も同書に載せて置いた。
五 商法延期戦
かくの如く法典発布の前より既に論争が始まっておったのであるが、法典は竟《つい》に発布せられ、且つその施行期日も切迫して来たことであるから、英法派は、第一帝国議会において、極力その実施を阻止せんとし、商法の施行期限を明治二十六年一月一日、即ち民法の施行期日まで延期するという法律案を衆議院に提出することとなった。これ実に法典実施延期論の開戦であって、英法派は法学院を根拠として戦備を整え、仏法派は明治法律学校を根拠として陣容を整え、双方とも両院議員の勧誘に全力をつくし、或は意見書を送付し、或は訪問勧説を行い、或は商工会その他の実業団体より請願書を出さしめなどした。そして、一方政府側においてもまた極力断行派の運動を助け、また新聞紙も、社説、雑報などにおいて各々その左袒《さたん》する説に応援し、なおまた双方の法律家は各所に演説会を開いて声援をなすなど、敵味方の作戦おさおさ怠りなかったが、いよいよ十二月十五日の議案に上る前夜に至っては、双方激昂の余り、中には議員に対して脅迫がましき書状を送った者さえもあったとの事である。衆議院では、延期法案の議事は十二月十五、十
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