フ養子法改正以後には、諸大名の嗣子無くして死んだためにその家の断絶した例は追々少なくなり、末期養子の禁は爾後《じご》次第に弛《ゆる》んで、天和年間に至ると、五十歳以上十七歳以下の者の末期養子でも、「吟味之上可レ定レ之」と令するに至った。とにかく、慶安以後の法令には「依二其筋目一」とか「依二其品一」とか「吟味之上」とかいう語があって、絶対の禁を弛《ゆる》べたのみならず、その実これを許さなかった例は極めて稀であったのである。随って浪人の数も著しく減少するようになり、正雪事件以後には、浪人の乱ともいうべきものは全くその跡を絶つに至った。
 「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。
 なおこの事に関する我輩の考証は、先頃帝国学士院に提出し、「帝国学士院第一部論文集」第一号として出版されているが、それらは余り細かい事に渉っているから、今はその大筋だけを話して置くのである。
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 九六 梅博士は真の弁慶


 民法起草委員の一人であった梅謙次郎博士は、非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人であった。同君は法文を起草するにも非常に迅速であったが、起草委員会において、三人がその原案を議するときには、極めて虚心で、他の批評を容れることいわゆる「流るるが如く」で、即座に筆を執って原稿を書き直したものであった。しかるに原案が一たび起草委員会で定まり、委員総会に提出せられると、同君はその雄健なる弁舌をもってこれに対する攻撃を反駁し、修正に対しても、一々これを弁解して、あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては、余り剛情であると思い、同じ原案者なる我々から譲歩を勧めたこともあった。同君の弁論の達者なことは、法典調査会の始めの主査委員会二十回および総会百回に、同君の発言総数が、三千八百五十二回に上っている一事でも分る。
 或時、委員の一人にて、これも鋭利なる論弁家であった東京控訴院長長谷川|喬《たかし》君が、総会の席上で原案の理由なきことを滔々《とうとう》と論じていると、梅君はその席から「大いに理由がある」と叫んだ。すると長谷川君は梅君の方を振向いて、「君に言わせると何でも理由がある」と反撃した。これは素より心易い
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