が見えている。
これは随分と変った解釈だ。継母が子供をいじめるのは素《もと》より罪深いことではあるが。
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八一 食人を無罪とす
ベーコンは、難船の場合に、二人の遭難者が、たった一人だけを支えることの出来る板子に取縋《とりすが》って、その一人が他の一人を突き落したがために、一人は助かり、他の一人は溺死したときに、その生残った者は殺人罪に問わるべきものであるか否やについて、有名な問題を提供した。そしてベーコンは、かくの如き二人併存する能わざる場合には、自保の法則が行われるから、罪とならぬと言うておる。たしかグローチゥスは、仮に飢餓に差迫った一人があって、パン屋の店先に通りかかったとき、ふとした出来心から店頭のパンを攫《つか》み取り、これを食うて僅に餓死を免れたとしたところが、それは盗罪にはならぬと論じておったように記憶する。
インドの古聖法は、餓死に瀕した場合には、たとい他人を殺してその肉を食うとも、それは自保のためである故、決して罪とはならぬとしてある。マヌー法典第十巻の中に、
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第百四条 生命の危険に迫りたる者は、何人より食を受くるも、罪に因りて汚されざること、あたかも大空が泥土のために汚されざるが如し。
第百五条 アジガルタ(Ajigarta)はその子を殺してこれを食わんことを企てしも、彼は餓死を免れんとしたるに過ぎざりしをもって、これがために罪に因りて汚さるることなかりき。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。これに依って観ると、当時は宗教、法律共に自保のためには他人を殺してこれを食うことを公許しておったものと思われる。
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八二 掠奪刑
原人中には、往々刑罰として罪人の財産を強奪することを許すことがある。例えばフィージー島の土人、ニュー・ジーランド人中には、タブー(禁諱)を犯す者あるときは、その刑罰として、隣人がその犯人の財産をば何なりとも奪い去ることを許している。この刑罰を“Muru”という。故にタブーに触れる者があるときは、近隣の者共は寄集って刑の宣告を待ち、いよいよ裁判の言渡があって、有罪を決すると、我れ勝ちにその罪人の家に駆けつけて、手当り次第に家財や家畜などを奪い去るのである。
かくの如き刑罰は、言わば罪人の財産権剥奪に等しいものであって、財産に関しては
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