父を告発しているような結果になった如きに至っては、罪なきは勿論のことで、たとい自分の父が下手人なることを知っていて告訴したのであっても、罪ありとすべきでないのである。その女《むすめ》が、告発後自殺するならば、夫に対しては義を守り、父兄に対しては孝悌の道を尽す者であるということが出来るけれども、これは備《そなわ》らんことを人に責めるものであって、普通人には無理な註文である。いわんや林大学頭が引証した「左伝」の語は、左氏が不義を戒める趣意で書いたものであって、決して論拠となすことは出来ない。
[#ここで字下げ終わり]
 白石はなおこの他にも広く古典および支那の歴史などを引用して詳論するところがあったので、遂にその意見が採用せられることとなって、秋元但馬守は、甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し、訴人「むす」は尼になるように宣告した。その判決文は左の通りである。


[#28字下げ]甚五兵衛
[#28字下げ]四郎兵衛
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右両人之者、聟《むこ》伊兵衛を父子申合しめ殺候由致二白状一候に付、解死人《げしにん》として死罪申付者也。
[#天から28字下げて]む    す
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右は夫伊兵衛川中に死し有之を見出し、訴出候処、父甚五兵衛兄四郎兵衛両人にて殺候儀致二露顕一、親兄共に解死人として死罪に罷成《まかりなり》候、夫殺され親兄死罪に罷成候上は、其身も尼に致させ、鎌倉松ヶ岡東慶寺へ差遣候。
   卯十月二十七日[#「19字下げて地より3字上げで]秋元但馬守
[#ここで字下げ終わり]

 今日より見れば、本件の「むす」なる婦人の罪なきことは、固より明々白々の事であって、鳳岡・白石の二大儒がかくの如くその脳漿《のうしょう》を絞って論戦するほどのことではないようであるが、当時支那道徳が形式上甚だしく尊重せられておったことと、且つは徳川幕府が総べて主人その他尊長に対する罪科を特に重大視してこれを厳罰する方針であったために、かくの如き論戦を惹起したものであろう。
[#改ページ]

 八○ 罪の語義


 「ツミ」なる語の意義については、本居宣長|大人《うし》の「大祓詞後釈」を始めとして、古来種々の解釈が試みられているが、伊勢貞丈の「安斎随筆」には「つめる」にて即ち「膚を摘み痛むるより起る詞なるべし」という意見
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