めに貴しという盛況を呈した。そしてこの書の名声と倶《とも》に高まったものは、そもそもこの無名の論客は果して何人《なんぴと》であるかという疑問の声であった。好奇心深き世人は、恣《ほしいまま》に当代の諸名士を捉え来って、この書の著者に擬したので、バーク(Edmond Burke)、ダンニング(Dunning)、マンスフィールド卿(Lord mansfield)、カムデン卿(Lord Camden)等の諸大家は、代る代るにこの空しき光栄を担《にな》わしめられたのであった。
かくの如き成功に接して、最も歓喜した者は、ベンサムの父であった。子に叱られた事までも吹聴して歩きたいのは親心の常であるから、当然我が愛子の頭を飾るべき桂冠が、あらぬ方へのみ落ちようとするもどかしさに、とても堪え切れず、我子との固き約束をも打忘れて、遂に自ら発行|書肆《しょし》を訪ねて、第二版には必ずジェレミー・ベンサム著と題してくれよと頼んだ。書肆はなかなか応じない。この書がかく売行の多いのは全く匿名の故である。余り高名ならざる御子息の名を載せたが最後、忽ち人気が落ち声価の減ずるは眼《ま》のあたりの事と、すげなくもこれを拒絶したのであった。しかるに、この事が忽ち世上に伝わると、如何なる大家の説かと思えば、そのような青二才の著作であったかと、世人の失望は一方ならず、書肆の予言は見事に的中して、第二版の準備も終に中止となってしまった。
ベンサムは後に自らこの事を記して、「我父約を守らざりしがために、この書の著者は何人にも知られざる或人」(Somebody unknown to nobody)なりと知れ渡るや否や、書肆の門前は忽ち雀羅《じゃくら》を張れりといっている。けだし「年少何の罪ぞ、白髪何の尊ぞ」の感慨禁じ難きものがあったであろう。さるにても、世人書を買わずして名を買う者の多きことよ。
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七〇 ベンサムの功績
天はベンサムに幸いして、これに仮すに八十四歳の高寿をもってしたのであるが、彼はこの長年月を最も有益に費して、この天寵を空しくはしなかった。彼の哲学の主眼は、有名なる「最大数の最大幸福」なる実利主義であったが、彼自身が実にこの主義の忠僕であった。その著書大小六十三巻、氏の歿後、友人ボーリング博士は、手簡および小伝とともにこれを一部に編纂して刊行した。今、世に行わるる「ベン
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