r the reason」はイタリック体]
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学者の妻にして、この文を読み、同情の涙に咽《むせ》ばぬ者があろうか。
回顧すれば既に十有余年の昔となったが、明治三十八年、我輩がアメリカのハーヴァード大学を訪《おとの》うた時、同大学の法科大学の大教場に、このオースチン夫人サラーの肖像を掲げてあるのを見た。これは英国オックスフォールド大学教授マークベイ(Markby)氏の寄贈したものだということであるが、我輩はこれに対して、深厚なる敬意を表するを禁《とど》めることが出来なかった。
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六六 歴史法学比較法学の始祖ライブニッツ
ライブニッツ(Leibnitz)は博覧強記の点において古今その比を見ない人と言ってよかろう。ギボンは彼を評して「世界併呑の鴻図《こうと》を懐き偉業未だ成らずして中道にして崩じたる古代の英主の如し」といっておる。「ファウスト」に、
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Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerei, und Medicin,
Und, leider! auch Theologie,
Durchaus studiert, mit heissem Bemuhn[「u」はウムラウト(¨)付き].
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はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
(ゲーテ作 森鴎外訳『ファウスト』岩波文庫、上、二三頁)
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とあるように、哲学・理学・医学・神学・数学・法学など、当時いやしくも一科をなしていた学問は、何一つとしてその蘊奥《うんのう》を極めないものはなく、英王ウィリアム三世は氏を渾名《あだな》して「歩行辞書」(Walking Dictionary)といい、ドイツ、イギリス、ロシヤなどの王室は、終身年金を贈っていずれもこの碩学を優遇した。
ライブニッツは年二十歳の時、ライプチヒ大学に赴いて法学博士の学位試験を受けたいという請求をしたところが、氏が未だ未成年であるとの理由をもって大学はこれを拒絶した。氏笑って言うよう、「年齢と学識と如何なる関係があるか。」去ってアルドルフ大学に一篇の学位請求論文を提出した。題して「法学教習新論」(Methodus
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