しなかった夫の気質を熟知している夫人の胸中には、次の如き思想が往来した。学者がその生前において未だ不完全なりとして公にしなかった草稿を、その妻が出版するということは、その夫に対する敬順の義務を破るものではあるまいか。自己の余生を亡き夫の遺業の完成のために委《ゆだ》ねるは、なお在《い》ます夫に事《つか》うる如き心地がして、この上もない楽しみではあるけれども、これはあるいは我慰安を求めて夫の遺志に違《たが》うものではあるまいか。かく煩悶した結果、夫人はいっそ夫の事業を我骨とともに永久に埋めて仕舞おうとまで決心したこともあったが、しかしながら、また翻って考えてみると、かくの如き偉人の事業を湮滅《いんめつ》せしめるのは、人類に対する義務にも反するものかと思われる。夫がなお不完全なりとして公刊しなかったのは、主としてその形式体裁の未だ整わなかったためであって、その学説については牢乎《ろうこ》たる確信を持っておった事は明らかであるから、もし夫の生前において未だ広く容れられなかった学説が、その妻たる自分の尽力に依って、夫の死後に至って認められ、また後進をも益するようになったならば、彼世における夫の満足は果して幾干《いくばく》であろうぞなど、かく考え直した結果、夫人は遂に故人の友人、門弟らの勧告に同意して、その遺稿を出版することに決意したのであった。
 既に出版と決した上は、次にその遺稿を整理編纂する任に当る者は何人《なんぴと》であるかの問題を決せねばならぬ。オースチンは前にも述べた通り、非常に緻密な思想家であって、物ごとに念の入り過ぎる方であったから、その草稿の如きも周密を極めたものであることは勿論、幾たびかこれを書き直してなお意に満たざりしものの如きものもあった。また毎葉に夥《おびただ》しき追加、抹消、挿入あるのみならず、或は連続を示す符号があり、或は縦横に転置の線が引いてあるなど、これを読むには殆んど迷園を辿るが如きもの極めて多く、またオースチンの癖として、自己の新理論を読者の脳中に深く刻み込もうと思う熱心の余りに、重複をも厭《いと》わず、同一事を幾度も繰り返し、或はイタリック字形を用うること多きに過ぐるなどの弊もあって、これを整理編纂するには、非常な学識と手腕とを有するは勿論、平素オースチンの思想、性癖を熟知しておった者でなくては、到底出来難い事業であった。さりとてオースチ
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