「う本があるが、これは英人イリスの「ポリチカル・エコノミー」を蘭書より重訳したものである。この後ち明治三年二月に定められた大学規則、および同年閏十月の大学南校規則には「利用厚生学」という名称が用いられている。
明治の初年にはウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland's Political Economy)が一般に行われ、その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあるので、一時「富学」という語を用いた人もあったが、これではいささか金儲けの学問と聞える弊《へい》があるとて、広くは行われず、異論はありながらも、やはり「経済学」と言うておったのである。
その後ちこの名称が久しく行われておったが、「経済」という語は、経国済民から出ておって、太宰春台の「経済録」などが適当の用法であることは勿論であるから、明治十四年の東京大学の規則には「理財学」と改められた。これはけだし「周易」の伝に[#以下の「」内の「レ一二」は返り点]「何以聚レ人、曰財、理レ財正レ辞、禁二民為一レ非、曰義」あるに拠ったものであろう。
しかしながら、字義の穿鑿《せんさく》はとにかく、世間では経済学という語は、神田氏以来久しく行われて、既に慣用語となっているし、原語の「ポリチカル・エコノミー」とても、本来充分にその意義を表している訳ではないから、やはり「経済学」という名称に復するのが好いという論が、金井・和田垣両教授などから出て、そこで明治二十六年九月の帝国大学法科大学の学科改正の時から、再び経済学という名称に復したのである。
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五七 統計学
スタチスチックスの訳名が「統計学」と定まるまでには多少の沿革がある。始め慶応三年四月に出版せられた神田孝平氏訳「経済小学」の序には、スタチスチックスを訳して「会計学」としてあるが、明治三年二月発布の「大学規則」には「国勢学」とある。これは、欧洲において中世より第十八世紀の始めに至るまでは、この語原の示す如く、国家の状態を研究する学問となっていたとのことであるから、その後の沿革を知らずに、二百年前の用例をそのままに「国勢学」と邦訳したのであろう。同年十月の大学南校規則にも「国務学」となっている。世良太一君の直話に拠れば、国勢学を一時「知国学」ともいうたこと
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