生の著わされた「立憲政体略」には「国憲」と訳され、明治五年に出版された「国法汎論」にも「国憲」の語を用いられ、「憲法」なる語はかえってGesetz即ち成文法に当ててある。
また慶応四年出版の津田|真道《まみち》先生の「泰西国法論」には「根本律法」または「国制」「朝綱」という語が用いてある。
しからば、憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである。しかしながら、当時は学者は概《おおむ》ね皆な憲法とは通常の法律を指すものであって、箕作博士の訳語は当っておらぬと言うておった。故に後に帝国憲法起草者の一人となった故井上|毅《こわし》君でさえ明治八年にプロイセン憲法を訳された時には「建国法」なる語を用いられた。明治八年の「東京開成学校一覧」には箕作博士の訳語に依って「憲法」としてあるが、同九年には「国憲」と改まっている。明治十三年の東京大学の学科にもやはり「国憲」となっている。前に言った明治十年司法省出版の「憲法志料」にも憲法を広く法令の意味に使っている。これに拠って見ても、当時箕作博士の用例は、未だ一般に採用せられておらなかったことが分る。
しかるに明治天皇が憲法制定の事を勅定し給い、伊藤博文公が憲法取調の勅命を受けられてより、いよいよ「憲法」なる語がコンスチチューシオン、フェルファッスングなどに相当する語となり、帝国大学においても、明治十九年以来憲法なる語を用いるようになったのである。
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五一 民法
民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多
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