である。
[#改ページ]

 五〇 憲法


 憲法という語は昔から広く用いられており、往々諸書にも見えているが、就中聖徳太子の「十七条憲法」は最も名高いものである。しかし近年に至るまでは、現今のように国家の根本法という意義には用いられておらなかった。徳川時代に「憲法部類」という有名な書がある。これは写本で行われて二種あるが、いずれも享保以下の諸法令を分類輯録したもので、その一は明和の頃までに至り、第一巻「殿中向」「御城内」「下馬」より第十巻「諸御書付」「諸奉公人」に至り、総べての法規を載せ、他の一は安永九年に至るまでの法令を載せ、養子、家督、縁組などの事より金銀銭、空米切手などの目《もく》に至っている。また同じく有名な書で「憲法類集」というのがあるが、これは天明七年から文政十二年に至る法令を分類編輯したもので、第一巻「武家諸法度」「殿中向」「疱瘡麻疹」「風邪」などから始まって、第十五巻「借金出入」「かたり并盗賊」「異国船」などに終っている。これらの分類目を観ても、当時のいわゆる「憲法」は広い意味に使ってあって、総べての法規を含んでいたということが知られるのである。
 明治時代になっても、明法寮《めいほうりょう》で編纂した「憲法類編」という書物があるが、これは現今の「法令全書」のようなものである。また明治十年から司法省で「憲法志料」が出版になったが、これは故木村|正辞《まさこと》博士の編纂で、推古天皇から後陽成天皇の慶長年中に至るまでの法文を集めたもので、「総類」「文武」「神官僧侶」「農工商」に分類してあって、これまた一般に法令という意味に使ってある。
 憲法という重々しい漢語を用うると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、決して現今のように国家の根本法のみを指すものではなかった。故に西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米人|裨治文《ブリッジメン》氏著の「聯邦志略」にも、合衆国のコンスチチューシオンを「世守成規」と訳してある。我邦においては、慶応二年に出版になった福沢氏の「西洋事情」には、合衆国のコンスチチューシオンを合衆国「律例」と訳してある。慶応四年に加藤|弘之《ひろゆき》先
前へ 次へ
全149ページ中67ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング