に接するの思いがあるのである。私は元来新羅山人の作品が好きであるが、それは単に絵がうまいばかりでなく、常にそうした気持が画題に含まれて、そこに滾々《こんこん》たる興味が尽きせぬからである。
新羅山人のこの場合の感慨は、要するにその作品のエスプリである。したがってこの絵を見て、ただ柿の枝に小鳥が止っている、構図がいい、筆意がいい、というのだけでは、未だこの絵を充分に理解したとは言い得ないのである。画題の意を掬み、作者の気持と自分の気持を一つにして、始めて正しい読画ができるのである。
新羅山人の複製は家にあと二枚あって、時々懸け換えるのであるが、他の一作には
[#ここから3字下げ]
孤煙双鳥下幽趣迫疎林
[#ここで字下げ終わり]
と書かれている。この図は左から斜めに出た小枝に鶺鴒《せきれい》が二羽飛び下りざまに止ったところを描いてあるだけで、これまた極めて簡単な図柄であるが、枝には風のそよぐ感じが出ているし、鶺鴒の頭の毛が細かに揺れて、いかにもスッと止ったという感じが出ている。画題にある孤煙というのは炭焼の煙でもあろうか、画面には煙の一筋も描かれていないが、画面右の空白の部分にいか
前へ
次へ
全17ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
藤島 武二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング