である。
私は絵を見る場合、常にこの気持をもってすることを忘れないようにしている。単に技巧の巧拙を見るばかりでなく、その絵を描いている人の態度とか、その絵のできる動機を見なければならぬと考えている。この点が何よりも大切なことであろうと信じているのである。
支那の絵画、殊に南画系のものには必ず画題がついているが、これは西洋画には全く見られないことで、その点東洋画独自のものであると言い得られる。もちろん西洋画にも画題はあるが、それは静物とか風景とか、ただ目録を作る場合の便宜のための符牒のようなものである。しかし画題というものの本来の意味は、決してそんなものではなく、作者のイデーが画面に現われ、それを訳して画題に示すのではないと思う。その点支那画には、作者の気持を詳しく文字に書き現わしていて、画題本来の意味がはっきり窺われている。絵を見て感心するばかりでなく、その画題によって作者の心持が見えるということは非常にいいことであると思う。
私の家の書斎にはいま新羅山人筆の柿と目白の水墨画の複製を額に入れて掲げてあるが、この絵には次のような画題が書いてある。
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