のできない、余りにも厳粛なる事実である。
結局最後まで遺るものは、作者の精神が強く輝いている作品である。何程表面が美しくても、エスプリのない作品は決して後世に遺ることができない。仮りに当時にあってそのエスプリが理解されなくとも、いつかは必ずそれが認められて後世に遺ってゆくのである。私は近頃この「永久に遺る」ということをしみじみ恐ろしいことだと考えている。
美術は永久に遺るものによって世の中を浄化するのである。ここに本当の芸術の価値が見出されるのである。そしてこのことは一方においてますます自己の無力を反省せしめることではあるが、その反面自己の仕事を楽しくさせることであると思う。私もまたこの両様の気持を同時に感じながら、ただ制作に力めるばかりである。改めて考えるまでもないが、展覧会で評判をとるというだけでは、まことに情けない芸当ではないかと思う。
一体芸術は自分だけの力で発達するものではない。周囲の力が昂揚すると同時に、芸術の力もそれにつれて湧き上ってくるのである。たとえば現在の文展なども、大きく見ればそれを文展のみの責任に帰することは間違っているとも言い得られる。現在の日本の文化
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