らぬ空想や妄想に惑って、自己を忘れて了っては全く何にもならぬ。この実に簡単なことが却って非常に難かしいのであるが、われわれは力めて単純に簡潔に自分自身を生かすことによって、自己のエスプリをますますしっかりと自分のものにしなければならないことを痛感するばかりである。
 作家のみならず、批評家もまた同じことである。如何に博学多識を誇っても、自己のエスプリを把握しておらなければ、それはただ単に文字に書かれた批評であるに過ぎない。批評が生きた批評となるためには、借り物の知識を振り廻すだけでは駄目である。自己にエスプリのある批評家になってこそ初めて、絵を見る力が具わるのである。どれ程巧みに何程多弁に批評が語られていても、エスプリを見得ない批評はむしろ無用の長物である。
 かくして最後に、芸術の深奥の底にあるものを絵を読む力のある人が感受し、作者のエスプリと観者のエスプリが完全に渾融した時、芸術の久遠の生命がそこに見出されるのである。そして永久に長い感銘を伝えるもののみが後世に遺ってゆく。盲千人ということをいうが、その間をくぐって遺る価値あるもののみが遺ってゆく。これこそは実に誰もが何ともすること
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