に取扱われているようだが、その実どうかと思われる場合が多いのはどんなものであろう。
 古い時代の大画家はもちろんであるが、私はその意味で、ピカソでもボナールでもドランでもそれぞれ立派な仕事をしていると思っている。少なくともその素晴らしい熱意には、大いに学ぶべきであろうと考えるのである。

 若い人達の仕事を見ると、何れもなかなか巧妙にやってはいるが、一列に自分自身の熱意が未だ足りないということを感じさせられる。ピカソに学ぶのもよいが、ただ画面への追随として終っては無意味である。ピカソに学ばねばならぬのは、むしろその画面の裏にかくされている彼の逞しい熱意を見ることにあらねばならないと思う。
 熱意が足りないということは、同時にエスプリが足りないということである。何だかんだと迷っていることである。口ではイデオロギーを称するが、本当は未だよく解っておらぬからである。もし本当に自己を知り、強固に自己のエスプリを持っているならば、目標に向って邁進すべく熱意は自ずから湧き出るということが考えられていいはずである。
 芸術の道に志す以上、もちろん誰の場合にも自分の心持はあるわけであるが、いろいろなも
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