い》は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪《にく》んで主戦者の孤忠《こちゅう》を憐《あわれ》まざる者なし。事の実際をいえば弱宋《じゃくそう》の大事すでに去り、百戦|必敗《ひっぱい》は固《もと》より疑うべきにあらず、むしろ恥《はじ》を忍《しの》んで一日も趙《ちょう》氏の祀《まつり》を存《そん》したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治《おさむ》る者が経綸《けいりん》を重んじて士気《しき》を養わんとするには、講和論者の姑息《こそく》を排《はい》して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳《しゅうほう》の名を殊《こと》にする所以《ゆえん》なるべし。
然《しか》るに爰《ここ》に遺憾《いかん》なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新《おうせいいしん》の事《こと》起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢《やせがまん》の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟《さと》り、敵に向《むかっ》てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自《みず》から家を解《と》きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風《きふう》を傷《そこな》うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償《つぐな》うに足らざるものというべし。
そもそも維新の事は帝室《ていしつ》の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外《ほか》ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河《みかわ》武士の旧風《きゅうふう》あらんには、伏見《ふしみ》の敗余《はいよ》江戸に帰るもさらに佐幕《さばく》の諸藩に令して再挙《さいきょ》を謀《はか》り、再挙三拳ついに成《な》らざれば退《しりぞい》て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖《ぎょうこう》し、いよいよ策|竭《つく》るに至りて城を枕に討死《うちじに》するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異《こと》ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
然《しか》るに彼《か》の講和論者《こうわろんじゃ》たる勝安房《かつあわ》氏の輩《はい》は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵《さっちょうへい》の鋒《ほこさき》敵すべからずといい、社会の安寧《あんねい》害すべからずといい、主公の身の上|危《あやう》しといい、或は言を大にして墻《かき》に鬩《せめ》ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方|周旋《しゅうせん》するのみならず、時としては身を危《あやう》うすることあるもこれを憚《はばか》らずして和議《わぎ》を説《と》き、ついに江戸解城と為《な》り、徳川七十万石の新封《しんぽう》と為りて無事《ぷじ》に局を結びたり。実に不可思議千万《ふかしぎせんばん》なる事相《じそう》にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂《なんな》んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾《しゅんじ》たる昆虫《こんちゅう》が百貫目の鉄槌《てっつい》に撃《う》たるるときにても、なおその足を張《はっ》て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫《ごう》も敵対《てきたい》の意なく、ただ一向《いっこう》に和《わ》を講《こう》じ哀《あい》を乞《こ》うて止《や》まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、竊《ひそか》に冷笑《れいしょう》したるも謂《いわ》れなきにあらず。
蓋《けだ》し勝氏《かつし》輩《はい》の所見《しょけん》は内乱の戦争を以て無上の災害《さいがい》無益《むえき》の労費《ろうひ》と認め、味方に勝算《しょうさん》なき限りは速《すみやか》に和《わ》して速に事《こと》を収《おさむ》るに若《し》かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危《あんき》または外交の利害などいうといえども、その心術の底《そこ》を叩《たたい》てこれを極《きわ》むるときは彼《か》の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢《やせがまん》は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊《あいまいもこ》の間《かん》に瞞着《まんちゃく》したる者なりと評して、これに答うる辞《ことば》はなかるべし。一時の豪気《ごうき》は以て懦夫《だふ》の胆《たん》を驚《おどろ》かすに足り、一場の詭言《きげん》は以て少年輩の心を籠絡《ろうらく》するに足るといえども、具眼卓識《ぐがんたくしき》の君子《くんし》は終《つい》に欺《あざむ》くべからず惘《し》うべからざるなり。
左《さ》れば当時|積弱《せきじゃく》の幕府に勝算《しょうさん》なきは我輩《わがはい》も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家|存
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