望なき回復を謀《はか》るがためいたずらに病苦《びょうく》を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終《りんじゅう》を安楽《あんらく》にするこそ智なるがごとくなれども、子と為《な》りて考うれば、億万中の一を僥倖《ぎょうこう》しても、故《ことさ》らに父母の死を促《うな》がすがごときは、情において忍《しの》びざるところなり。
 左《さ》れば自国の衰頽《すいたい》に際し、敵に対して固《もと》より勝算《しょうさん》なき場合にても、千辛万苦《せんしんばんく》、力のあらん限りを尽《つく》し、いよいよ勝敗の極《きょく》に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢《やせがまん》なれども、強弱|相対《あいたい》していやしくも弱者の地位を保つものは、単《ひとえ》にこの瘠我慢に依《よ》らざるはなし。啻《ただ》に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭《オランダ》、白耳義《ベルギー》のごとき小国が、仏独の間に介在《かいざい》して小政府を維持するよりも、大国に合併《がっぺい》するこそ安楽《あんらく》なるべけれども、なおその独立を張《はり》て動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢《がまん》能《よ》く国の栄誉《えいよ》を保つものというべし。
 我《わが》封建《ほうけん》の時代、百万石の大藩に隣《となり》して一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にして毫《ごう》も譲《ゆず》るところなかりしも、畢竟《ひっきょう》瘠我慢の然《しか》らしむるところにして、また事柄《ことがら》は異なれども、天下の政権武門に帰《き》し、帝室《ていしつ》は有《あ》れども無《な》きがごとくなりしこと何百年、この時に当りて臨時《りんじ》の処分《しょぶん》を謀《はか》りたらば、公武合体《こうぶがったい》等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にして能《よ》くその地位を守り幾艱難《いくかんなん》のその間にも至尊《しそん》犯《おか》すべからざるの一義を貫《つらぬ》き、たとえば彼《か》の有名なる中山大納言《なかやまだいなごん》が東下《とうか》したるとき、将軍家を目《もく》して吾妻《あずま》の代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違《そうい》なしといえども、その瘠我慢《やせがまん》こそ帝室《ていしつ》の重きを成したる由縁《ゆえん》なれ。
 また古来士風の美をいえば三河武士《みかわぶし》の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊《こと》にすれども、戦国割拠《せんごくかっきょ》の時に当りて徳川の旗下《きか》に属し、能《よ》く自他《じた》の分《ぶん》を明《あきらか》にして二念《にねん》あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知《しり》て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦《しんく》を嘗《なむ》るもかつて落胆《らくたん》することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死《ひっぱいひっし》を眼前《がんぜん》に見てなお勇進《ゆうしん》するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。これすなわち宗祖《そうそ》家康公《いえやすこう》が小身《しょうしん》より起《おこ》りて四方を経営《けいえい》しついに天下の大権を掌握《しょうあく》したる所以《ゆえん》にして、その家の開運《かいうん》は瘠我慢の賜《たまもの》なりというべし。
 左《さ》れば瘠我慢の一主義は固《もと》より人の私情に出《いず》ることにして、冷淡《れいたん》なる数理より論ずるときはほとんど児戯《じぎ》に等しといわるるも弁解《べんかい》に辞《じ》なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂《いわゆる》国家なるものを目的に定めてこれを維持《いじ》保存《ほぞん》せんとする者は、この主義に由《よ》らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気《しき》を養《やしな》うたるもこの主義に由り、封建すでに廃《はい》して一統の大日本帝国と為《な》り、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由《よ》らざるべからず。
 故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁《ていさい》に文野の変遷《へんせん》こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片《いっぺん》の瘠我慢は立国の大本《たいほん》としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養《ばいよう》してその原素の発達を助くること緊要《きんよう》なるべし。すなわち国家|風教《ふうきょう》の貴《たっと》き所以《ゆえん》にして、たとえば南宋の時に廟議《びょうぎ》、主戦《しゅせん》と講和《こうわ》と二派に分れ、主戦論者は大抵《たいてい》皆《みな》擯《しりぞ》けられて或《ある
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