亡《そんぼう》の危急《ききゅう》に迫《せま》りて勝算の有無《うむ》は言うべき限りにあらず。いわんや必勝《ひっしょう》を算《さん》して敗《はい》し、必敗《ひっぱい》を期して勝《か》つの事例も少なからざるにおいてをや。然《しか》るを勝氏は予《あらかじ》め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自《みず》から自家の大権《たいけん》を投棄《とうき》し、ひたすら平和を買わんとて勉《つと》めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍《わざわい》をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢《やせがまん》の士風を傷《そこな》うたるの責《せめ》は免《まぬ》かるべからず。殺人《さつじん》散財《さんざい》は一時の禍にして、士風の維持は万世《ばんせい》の要なり。これを典《てん》して彼《かれ》を買う、その功罪|相償《あいつぐな》うや否《いな》や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。
或はいう、王政維新《おうせいいしん》の成敗《せいはい》は内国の事にして、いわば兄弟|朋友《ほうゆう》間の争いのみ、当時東西|相敵《あいてき》したりといえどもその実は敵にして敵にあらず、兎《と》に角《かく》に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解《と》きたるは時勢に応じて好《よ》き手際《てぎわ》なりとて、妙《みょう》に説を作《な》すものあれども、一場《いちじょう》の遁辞《とんじ》口実《こうじつ》たるに過ぎず。内国の事にても朋友間《ほうゆうかん》の事にても、既《すで》に事端《じたん》を発するときは敵はすなわち敵なり。然《しか》るに今その敵に敵するは、無益《むえき》なり、無謀《むぼう》なり、国家の損亡《そんもう》なりとて、専《もっぱ》ら平和無事に誘導《ゆうどう》したるその士人《しじん》を率《ひき》いて、一朝《いっちょう》敵国|外患《がいかん》の至るに当り、能《よ》くその士気を振《ふる》うて極端《きょくたん》の苦辛《くしん》に堪《た》えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢《やせがまん》なきものは外に対してもまた然《しか》らざるを得ず。これを筆にするも不祥《ふしょう》ながら、億万《おくまん》一にも我《わが》日本国民が外敵に逢《あ》うて、時勢を見計《みはか》らい手際好《てぎわよ》く自《みず》から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。然《しか》り而《しこう》して幕府解散の始末《しまつ》は内国の事に相違なしといえども、自《おのず》から一例を作りたるものというべし。
然《しか》りといえども勝氏も亦《また》人傑《じんけつ》なり、当時幕府内部の物論《ぶつろん》を排《はい》して旗下《きか》の士の激昂《げきこう》を鎮《しず》め、一身を犠牲《ぎせい》にして政府を解《と》き、以て王政維新《おうせいいしん》の成功を易《やす》くして、これが為《た》めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳《こうとく》は少なからずというべし。この点に就《つい》ては我輩《わがはい》も氏の事業を軽々《けいけい》看過《かんか》するものにあらざれども、独《ひと》り怪《あや》しむべきは、氏が維新の朝《ちょう》に曩《さ》きの敵国の士人と並立《ならびたっ》て得々《とくとく》名利《みょうり》の地位に居《お》るの一事なり(世に所謂《いわゆる》大義名分《たいぎめいぶん》より論ずるときは、日本国人はすべて帝室《ていしつ》の臣民にして、その同胞《どうほう》臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決して然《しか》らず。幕府の末年に強藩の士人等が事を挙《あ》げて中央政府に敵し、其《その》これに敵するの際に帝室《ていしつ》の名義《めいぎ》を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古《いにしえ》に復《ふく》したるその挙《きょ》を名《なづ》けて王政維新《おうせいいしん》と称することなれば、帝室《ていしつ》をば政治社外の高処《こうしょ》に仰《あお》ぎ奉《たてまつ》りて一様《いちよう》にその恩徳《おんとく》に浴《よく》しながら、下界《げかい》に居《おっ》て相《あい》争《あらそ》う者あるときは敵味方の区別なきを得ず。事実に掩《おお》うべからざるところのものなればなり。故《ゆえ》に本文《ほんもん》敵国の語、或《あるい》は不穏《ふおん》なりとて説を作《な》すものもあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。
東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底《とうてい》終《おわり》を全《まっと》うすべき人にあらず。漢《かん》の高祖《こうそ》が丁公《ていこう》を戮《りく》し、清《しん》の康煕《こうき》帝が明《みん》末の遺臣《いしん》を擯斥《ひんせき》し、日本にては織田信長《おだのぶなが》が武田勝頼《たけだかつより》の奸臣《かんしん》、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国《おやまだよしくに》の輩《はい》を誅《ちゅ
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