う》し、豊臣秀吉《とよとみひでよし》が織田|信孝《のぶたか》の賊臣|桑田彦右衛門《くわたひこえもん》の挙動《きょどう》を悦《よろこ》ばず、不忠不義者、世の見懲《みごら》しにせよとて、これを信考の墓前《ぼぜん》に磔《はりつけ》にしたるがごとき、是等《これら》の事例は実に枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。
 騒擾《そうじょう》の際に敵味方|相対《あいたい》し、その敵の中に謀臣《ぼうしん》ありて平和の説を唱《とな》え、たとい弐心《ふたごころ》を抱《いだ》かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨《きか》として私《ひそか》にその人を厚遇《こうぐう》すれども、干戈《かんか》すでに収《おさ》まりて戦勝の主領が社会の秩序《ちつじょ》を重んじ、新政府の基礎《きそ》を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩《さ》きに奇貨《きか》とし重んじたる彼《か》の敵国の[#「敵国の」は底本では「敬国の」]人物を目《もく》して不臣不忠《ふしんふちゅう》と唱《とな》え、これを擯斥《ひんせき》して近づけざるのみか、時としては殺戮《さつりく》することさえ少《すく》なからず。誠に無慙《むざん》なる次第《しだい》なれども、自《おのず》から経世《けいせい》の一法《いっぽう》として忍《しの》んでこれを断行《だんこう》することなるべし。
 すなわち東洋諸国|専制流《せんせいりゅう》の慣手段《かんしゅだん》にして、勝氏のごときも斯《かか》る専制治風の時代に在《あ》らば、或は同様の奇禍《きか》に罹《かか》りて新政府の諸臣を警《いま》しむるの具《ぐ》に供せられたることもあらんなれども、幸《さいわい》にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣《いしんこうしん》の手に在《あ》りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰《ひん》に傚《なら》い、一切万事|寛大《かんだい》を主として、この敵方の人物を擯斥《ひんせき》せざるのみか、一時の奇貨《きか》も永日の正貨《せいか》に変化し、旧幕府の旧風を脱《だっ》して新政府の新|貴顕《きけん》と為《な》り、愉快《ゆかい》に世を渡りて、かつて怪《あや》しむ者なきこそ古来|未曾有《みぞう》の奇相《きそう》なれ。
 我輩《わがはい》はこの一段に至りて、勝氏の私《わたくし》の為《た》めには甚《はなは》だ気の毒なる次第《しだい》なれども、聊《いささ》か所望《しょもう》の筋《すじ》なきを得ず。その次第《しだい》は前にいえるごとく、氏の尽力《じんりょく》を以て穏《おだやか》に旧政府を解《と》き、由《よっ》て以《もっ》て殺人|散財《さんざい》の禍《わざわい》を免《まぬ》かれたるその功は奇《き》にして大なりといえども、一方より観察を下《くだ》すときは、敵味方|相対《あいたい》して未《いま》だ兵を交《まじ》えず、早く自《みず》から勝算《しょうさん》なきを悟《さと》りて謹慎《きんしん》するがごとき、表面には官軍に向て云々《うんぬん》の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下《ばっか》たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試《こころ》みずして降参《こうさん》したるものなれば、三河武士《みかわぶし》の精神に背《そむ》くのみならず、我日本国民に固有《こゆう》する瘠我慢《やせがまん》の大主義を破《やぶ》り、以て立国《りっこく》の根本たる士気《しき》を弛《ゆる》めたるの罪は遁《のが》るべからず。一時の兵禍《へいか》を免《まぬ》かれしめたると、万世《ばんせい》の士気を傷《きず》つけたると、その功罪|相償《あいつぐな》うべきや。
 天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為《た》めに謀《はか》れば、たとい今日の文明流に従って維新後《いしんご》に幸《さいわい》に身を全《まっと》うすることを得たるも、自《みず》から省《かえり》みて我《わが》立国《りっこく》の為《た》めに至大至重《しだいしちょう》なる上流士人の気風《きふう》を害《がい》したるの罪を引き、維新前後の吾身《わがみ》の挙動《きょどう》は一時の権道《けんどう》なり、権《か》りに和議《わぎ》を講じて円滑《えんかつ》に事を纏《まと》めたるは、ただその時の兵禍《へいか》を恐れて人民を塗炭《とたん》に救わんが為《た》めのみなれども、本来|立国《りっこく》の要は瘠我慢《やせがまん》の一義に在《あ》り、いわんや今後敵国|外患《がいかん》の変《へん》なきを期《き》すべからざるにおいてをや。かかる大切《たいせつ》の場合に臨《のぞ》んでは兵禍《へいか》は恐るるに足《た》らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努※[#二の字点、1−2−22]《ゆめゆめ》吾《わが》維新《いしん》の挙動《きょどう》を学んで権道《けんどう》に就《つ》くべからず、俗にいう武士の風上《かざかみ》にも置かれぬとはす
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