憂一哀一楽、来往《らいおう》常《つね》ならずして身を終るまで円満《えんまん》の安心《あんしん》快楽《かいらく》はあるべからざることならん。されば我輩《わがはい》を以《もっ》て氏の為《た》めに謀《はか》るに、人の食《しょく》を食《は》むの故《ゆえ》を以《もっ》て必ずしもその人の事に死すべしと勧告《かんこく》するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮《えんりょ》するところなきを得ず。
古来の習慣に従えば、凡《およ》そこの種の人は遁世《とんせい》出家《しゅっけ》して死者の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家《しゅっけ》落飾《らくしょく》も不似合《ふにあい》とならば、ただその身を社会の暗処《あんしょ》に隠《かく》してその生活を質素《しっそ》にし、一切《いっさい》万事《ばんじ》控目《ひかえめ》にして世間の耳目《じもく》に触《ふ》れざるの覚悟《かくご》こそ本意なれ。
これを要するに維新《いしん》の際、脱走《だっそう》の一挙《いっきょ》に失敗《しっぱい》したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早《もはや》政治上に再生《さいせい》すべからざるものと観念して唯《ただ》一身を慎《つつし》み、一は以《もっ》て同行戦死者の霊を弔《ちょう》してまたその遺族《いぞく》の人々の不幸不平を慰《なぐさ》め、また一には凡《およ》そ何事に限らず大挙《たいきょ》してその首領の地位に在る者は、成敗《せいはい》共に責《せめ》に任じて決してこれを遁《のが》るべからず、成《な》ればその栄誉《えいよ》を専《もっぱ》らにし敗すればその苦難《くなん》に当るとの主義を明《あきらか》にするは、士流社会の風教上《ふうきょうじょう》に大切《たいせつ》なることなるべし。すなわちこれ我輩《わがはい》が榎本氏の出処《しゅっしょ》に就《つ》き所望《しょもう》の一点にして、独《ひと》り氏の一身の為《た》めのみにあらず、国家百年の謀《はかりごと》において士風|消長《しょうちょう》の為《た》めに軽々《けいけい》看過《かんか》すべからざるところのものなり。
以上の立言《りつげん》は我輩《わがはい》が勝、榎本の二氏に向《むかっ》て攻撃を試《こころ》みたるにあらず。謹《つつし》んで筆鋒《ひっぽう》を寛《かん》にして苛酷《かこく》の文字を用いず、以《もっ》てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀《ちぼう》忠勇《ちゅうゆう》の功名《こうみょう》をば飽《あ》くまでも認《みとむ》る者なれども、凡《およ》そ人生の行路《こうろ》に富貴《ふうき》を取れば功名を失い、功名を全《まっと》うせんとするときは富貴を棄《す》てざるべからざるの場合あり。二氏のごときは正《まさ》しくこの局に当る者にして、勝氏が和議《わぎ》を主張して幕府を解《と》きたるは誠に手際《てぎわ》よき智謀《ちぼう》の功名なれども、これを解きて主家の廃滅《はいめつ》したるその廃滅の因縁《いんねん》が、偶《たまた》ま以《もっ》て一旧臣の為《た》めに富貴を得せしむるの方便《ほうべん》となりたる姿《すがた》にては、たといその富貴《ふうき》は自《みず》から求めずして天外より授《さず》けられたるにもせよ、三河武士《みかわぶし》の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角《せっかく》の功名|手柄《てがら》も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
榎本氏が主戦論をとりて脱走《だっそう》し、遂《つい》に力|尽《つ》きて降《くだ》りたるまでは、幕臣《ばくしん》の本分《ほんぶん》に背《そむ》かず、忠勇の功名|美《び》なりといえども、降参《こうさん》放免《ほうめん》の後《のち》に更に青雲の志を発して新政府の朝《ちょう》に富貴《ふうき》を求め得たるは、曩《さき》にその忠勇を共にしたる戦死者|負傷者《ふしょうしゃ》より爾来《じらい》の流浪者《るろうしゃ》貧窮者《ひんきゅうしゃ》に至るまで、すべて同挙《どうきょ》同行《どうこう》の人々に対して聊《いささ》か慙愧《ざんき》の情なきを得ず。これまたその功名の価《あたい》を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空《むなし》うするの媒介《ばいかい》なれば、今なお晩《おそ》からず、二氏共に断然《だんぜん》世を遁《のが》れて維新《いしん》以来の非を改《あらた》め、以《もっ》て既得《きとく》の功名を全《まっと》うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳《ほう》にするも臭《しゅう》にするも、心事の決断|如何《いかん》に在《あ》り、力《つと》めざるべからざるなり。
然《しか》りといえども人心の微弱《びじゃく》、或は我輩《わがはい》の言《げん》に従うこと能《あた》わざるの事情もあるべし。これまた止《や》むを得ざる次第《しだい》なれども、兎《と》に
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