に降参《こうさん》したるは是非《ぜひ》なき次第《しだい》なれども、脱走《だっそう》の諸士は最初より氏を首領《しゅりょう》としてこれを恃《たの》み、氏の為《た》めに苦戦し氏の為《た》めに戦死したるに、首領にして降参《こうさん》とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰《あたか》も見捨てられたる姿にして、その落胆《らくたん》失望《しつぼう》はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者|若《も》し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館《はこだて》の五稜郭《ごりょうかく》開城《かいじょう》のとき、総督《そうとく》榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告《かんこく》せしに、一部分の人はこれを聞《きい》て大《おおい》に怒り、元来今回の挙《きょ》は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習《ならい》として一死|以《もっ》て二百五十年の恩に報《むくい》るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等《われら》は我等の武士道に斃《たお》れんのみとて憤戦《ふんせん》止《とど》まらず、その中には父子|諸共《もろとも》に切死《きりじに》したる人もありしという。
烏江《うこう》水浅《みずあさくして》騅能逝《すいよくゆくも》、一片《いっぺんの》義心《ぎしん》不可東《ひんがしすべからず》とは、往古《おうこ》漢楚《かんそ》の戦に、楚軍《そぐん》振《ふる》わず項羽《こうう》が走りて烏江《うこう》の畔《ほとり》に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙《さいきょ》の望なきにあらずとてその死を留《とど》めたりしかども、羽《う》はこれを聴《き》かず、初め江東の子弟八千を率《ひき》いて西し、幾回《いくかい》の苦戦に戦没《せんぼつ》して今は一人の残る者なし、斯《かか》る失敗の後に至り、何の面目か復《ま》た江東に還《かえ》りて死者の父兄を見んとて、自尽《じじん》したるその時の心情を詩句に写《うつ》したるものなり。
漢楚《かんそ》軍談のむかしと明治の今日《こんにち》とは世態《せいたい》固《もと》より同じからず。三千年前の項羽《こうう》を以《もっ》て今日の榎本氏を責《せむ》るはほとんど無稽《むけい》なるに似《に》たれども、万古不変《ばんこふへん》は人生の心情にして、氏が維新《いしん》の朝《ちょう》に青雲の志を遂《と》げて富貴《ふうき》得々《とくとく》たりといえども、時に顧《かえり》みて箱館《はこだて》の旧を思い、当時|随行《ずいこう》部下の諸士が戦没《せんぼつ》し負傷したる惨状《さんじょう》より、爾来《じらい》家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍《ろぼう》に彷徨《ほうこう》するの事実を想像し聞見《もんけん》するときは、男子の鉄腸《てっちょう》もこれが為《た》めに寸断《すんだん》せざるを得ず。夜雨《やう》秋《あき》寒《さむ》うして眠《ねむり》就《な》らず残燈《ざんとう》明滅《めいめつ》独《ひと》り思うの時には、或は死霊《しりょう》生霊《いきりょう》無数の暗鬼《あんき》を出現して眼中に分明なることもあるべし。
蓋《けだ》し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人《だっそうしじん》を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐《あわれ》まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州《すんしゅう》清見寺内《せいけんじない》に石碑《せきひ》あり、この碑は、前年幕府の軍艦|咸臨丸《かんりんまる》が、清水港《しみずみなと》に撃《う》たれたるときに戦没《せんぼつ》したる春山弁造《はるやまべんぞう》以下脱走士の為《た》めに建てたるものにして、碑の背面に食人之《ひとのしょくを》食者《はむものは》死人之事《ひとのことにしす》の九字を大書して榎本武揚《えのもとたけあき》と記し、公衆の観に任して憚《はばか》るところなきを見れば、その心事の大概《たいがい》は窺《うかがい》知《し》るに足《た》るべし。すなわち氏はかつて徳川家の食《しょく》を食《は》む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵《こうがいちゅうちょう》自《おのず》から禁ずる能《あた》わず、欽慕《きんぼ》の余《あま》り遂《つい》に右の文字をも石《いし》に刻《こく》したることならん。
すでに他人の忠勇《ちゅうゆう》を嘉《よ》みするときは、同時に自《みず》から省《かえり》みて聊《いささ》か不愉快《ふゆかい》を感ずるもまた人生の至情《しじょう》に免《まぬ》かるべからざるところなれば、その心事を推察《すいさつ》するに、時としては目下の富貴《ふうき》に安んじて安楽《あんらく》豪奢《ごうしゃ》余念《よねん》なき折柄《おりから》、また時としては旧時の惨状《さんじょう》を懐《おも》うて慙愧《ざんき》の念を催《もよ》おし、一喜一
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