《かえり》みて箱館《はこだて》の旧を思い、当時|随行《ずいこう》部下の諸士が戦没《せんぼつ》し負傷したる惨状《さんじょう》より、爾来《じらい》家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍《ろぼう》に彷徨《ほうこう》するの事実を想像し聞見《もんけん》するときは、男子の鉄腸《てっちょう》もこれが為《た》めに寸断《すんだん》せざるを得ず。夜雨《やう》秋《あき》寒《さむ》うして眠《ねむり》就《な》らず残燈《ざんとう》明滅《めいめつ》独《ひと》り思うの時には、或は死霊《しりょう》生霊《いきりょう》無数の暗鬼《あんき》を出現して眼中に分明なることもあるべし。
蓋《けだ》し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人《だっそうしじん》を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐《あわれ》まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州《すんしゅう》清見寺内《せいけんじない》に石碑《せきひ》あり、この碑は、前年幕府の軍艦|咸臨丸《かんりんまる》が、清水港《しみずみなと》に撃《う》たれたるときに戦没《せんぼつ》したる春山弁造《はるやまべんぞう》以下脱走士の為《た》めに建てたるものにして、碑の背面に食人之《ひとのしょくを》食者《はむものは》死人之事《ひとのことにしす》の九字を大書して榎本武揚《えのもとたけあき》と記し、公衆の観に任して憚《はばか》るところなきを見れば、その心事の大概《たいがい》は窺《うかがい》知《し》るに足《た》るべし。すなわち氏はかつて徳川家の食《しょく》を食《は》む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵《こうがいちゅうちょう》自《おのず》から禁ずる能《あた》わず、欽慕《きんぼ》の余《あま》り遂《つい》に右の文字をも石《いし》に刻《こく》したることならん。
すでに他人の忠勇《ちゅうゆう》を嘉《よ》みするときは、同時に自《みず》から省《かえり》みて聊《いささ》か不愉快《ふゆかい》を感ずるもまた人生の至情《しじょう》に免《まぬ》かるべからざるところなれば、その心事を推察《すいさつ》するに、時としては目下の富貴《ふうき》に安んじて安楽《あんらく》豪奢《ごうしゃ》余念《よねん》なき折柄《おりから》、また時としては旧時の惨状《さんじょう》を懐《おも》うて慙愧《ざんき》の念を催《もよ》おし、一喜一
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