いぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違《たが》わざるもの幾何《いくばく》あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。
 試に今日女子の教育を視よ、都鄙《とひ》一般に流行して、その流行の極《きわみ》、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜《ぼく》することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事も覚束《おぼつか》なき農民の婦女子に横文の素読を教えて何の益をなすべきや。嫁しては主夫の襤褸《ぼろ》を補綴《ほてい》する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の
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