文明教育論
福沢諭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脩《おさ》めて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)活溌|敢為《かんい》
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今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし。然るに世に智徳の二字を熟語となし、智恵といえば徳もまた、これに従うものの如く心得、今日、西洋の文明は智徳の両者より成立つものなれば、智恵を進むるには徳義もまた進めざるべからずとて、或る学者はしきりに道徳の教をしき、もって西洋の文明に至らんとする者あり。もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、智恵あり道徳の心あらざる者は禽獣にひとしく、これを人非人という。また徳義のみを脩《おさ》めて智恵の働あらざる者は石の地蔵にひとしく、これまた人にして人にあらざる者なり。
両者のともに欠くべからざるは右の如くなりといえども、今日の文明は道徳の文明にあらず。昔日《せきじつ》の道徳も今日の道徳も、その分量においてはさらに増減あることなく、啻《ただ》に増減あらざるのみならず、古書に載するところをもって果して信とせば、道徳の量はかえって昔日に多くして、末世の今日にいたり大にその量を減じたる割合なれども、かえりみて文明の程度如何を察するときは昔日に低くして今日に高しといわざるをえず。これに反して智恵の分量は古来今に至るまで次第に増加して、智識少なき時は文明の度低く、智識多き時は文明の度高し。亜非利加《アフリカ》の土人に智識少なし、ゆえに未だ文明の域に至らず。欧米人に智識多し、ゆえにその人民は文明の民なり。
されば今日の文明は道徳の文明にあらずして智恵の文明なること、また争うべからざるなり。また小児の概して正直にして、無智の人民に道徳堅固の者多きは、今日の実際において疑うべからざることなれば、道徳は必ず人の教によるものにあらず、あたかも人の天賦に備わりて偶然に発起するものなりといえども、智恵は然らず。人学ばざれば智なし。面壁九年能く道徳の蘊奥《うんおう》を究むべしといえども、たとえ面壁九万年に及ぶも蒸気の発明はとても期すべからざるなり。
世に教育なるものの必要なるは、すなわちこのゆえにして、人学ばざれば智なきがゆえに、学校を建ててこれを教え、これを育するの趣向なり。されども一概に教育とのみにては、その意味はなはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然るをいわんや、その者の性質をや。ことごとくこれを教えんとするも、とても人力にかなわざる所なり。人間衛生の事なり、活計の事なり、社会の交際、一人の行状、小は食物の調理法より大は外国の交際に至るまで千差万別、無限の事物を僅々《きんきん》数年間の課業をもって教うべきに非ず、学ぶべきに非ず。たとえ、その一部分にてもこれを教えて完全ならしめんとするときは、かえってその人の天資を傷い、活溌|敢為《かんい》の気象を退縮せしめて、結局世に一愚人を増すのみ。今日の実際においてその例少なからず。されば到底この繁多なる事物を教えんとするもでき難きことなれば、果して世に学校なるものは不用なるやというに決して然らず。
もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽《ろうばい》せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違《たが》わざるもの幾何《いくばく》あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。
試に今日女子の教育を視よ、都鄙《とひ》一般に流行して、その流行の極《きわみ》、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜《ぼく》することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事も覚束《おぼつか》なき農民の婦女子に横文の素読を教えて何の益をなすべきや。嫁しては主夫の襤褸《ぼろ》を補綴《ほてい》する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の
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