て自ら安んずることならんなれども、前節にいえる如く、今日の日本は世界に対するの日本なり、いやしくも国を国として栄辱の所在を知るものは、君らの言行について不平なきを得ざるなり。また些細《ささい》の事なれども手近く一例を示さんに、『時事新報』紙上に折々英語を記して訳文を添えたる西洋の落語また滑稽談《こっけいだん》の如きものは読者の知る所ならん。この文は西洋の新聞紙等より抜きたるものにして、必ずしもその記事の醜美を撰《えら》ぶにあらざれば、時々法外千万なる漫語放言もあれども、人生の内行に関するの醜談、即ち俗にいう下掛《しもがか》りのこととては、かつて一言もこれを見ず。その然る所以《ゆえん》は、訳者が心を用いて特に避けたるにあらずして、原書中を求めて斯《かか》る醜談に見当たらざればなり。今|仮《かり》に西洋の原書を離れて、これに易《か》うるに日本流の落語滑稽を以てせんとして、その種類を集めたらばいかなるものを得《う》べきや。談柄《だんぺい》必ず肉体の区域に入りて、見苦しく聞き苦しきものは十中の七、八なるべし。畢竟《ひっきょう》我が人文のなお未だ鄙陋《ひろう》を免れざるの証として見るべきものなり。然《しか》り而《しこう》してこの日本流の落語なりまた滑稽談なり、特に下等の民間に行わるる鄙陋《ひろう》なればなお恕《じょ》すべしといえども、堂々たる上流の士君子と称する輩が、自ら鄙陋を犯してまた鄙陋を語り、醜臭を世界に放つが如きは、国民の標準たる士君子の徳義上において、遁《のが》るべからざるの罪というべし。
 本編の趣旨は、初段の冒頭にもいえる如く、日本男児の品行を正し、その高きに過ぐる頭《かしら》を取って押さえ、男女《なんにょ》両性の地位に平均を得せしめんとするの目的を以て論緒《ろんしょ》を開き、人間道徳の根本は夫婦の間にあり、世間の道徳論者が自愛博愛などとてその得失を論ずる者あれども、本来私徳公徳の区別を知らざるものなれば、脩徳《しゅうとく》に前後緩急を誤ること多し、私徳は公徳の母にして、その私徳の根本は夫婦|家《いえ》に居《お》るの大倫にあり、然《しか》り而《しこう》して古来世の中の実際において、常にこの大倫を破る者は男子にして、我が日本国の如きはその最も甚だしきものなれば、多妻法、断じて許すべからず、斯《かか》る醜行を犯す者は、一家の不幸を醸《かも》して、禍《わざわい》を後世子孫に遺すのみならず、内行不取締は醜聞を世界万国に放つものにして、自国の名声を害するの罪人なり云々とて、筆鋒の向かう所は専《もっぱ》ら男子にして、婦人の地位|如何《いかん》に論及したることなし。そもそも我が国の婦人を男子に比較するときは、全く地位を殊《こと》にし、居家《きょか》内実の権力はともかくも、戸外交際の事に至りてはすべて男子のために専らにせられて、婦人は有れども無きに異ならず。特に男子が多妻の醜行を犯して婦人の情を痛ましむるが如き、ただに自愛に偏するのみならず私曲私慾の最も甚だしきものにして、更に一言の弁論あるべからず。我輩は常に世の道徳論者の言を聞き、論者が特にこの大切なる一点をば軽々《けいけい》看過してあたかも不問に附する者多きを見て窃《ひそ》かに怪しむのみか、その無識を冷笑するほどの次第なれば、大いに婦人の地位を推《お》してこれを高処に進め、以て男子に拮抗《きっこう》せしめんとするの考案なきにあらず。徹頭徹尾、今の婦人と今の男子とを相対照して今の関係にあらしむるは、我輩のあくまでも悦《よろこ》ばざる所なれども、眼を転じて一方より考うれば、本来物の高低・強弱・大小等は相対の関係にして絶対の義にあらず。高きものあればこそ低きものもあり、強大あればこそ小弱もあり。故に今、婦人の地位を低しというも、男子の地位を引下げて併行《へいこう》するに至らしむれば、男女の権力平等なりというべし。あるいは婦人は今のままにして、男子の地位をして一層の下に就《つ》かしむれば、女権特に高しというべし。これ即ち我輩が独り男子を目的にして論鋒を差向けたる所以《ゆえん》なり。
 然るにここに支那学の古流に従って、女子のために特に定めたる教義あり。その義は諸書に記して多き中について、我が国普通の書を『女大学』と称し、女教の大要を陳《の》べたるものなるが、書中往々不都合にして解すべからざるものなきにあらず。例えば女子の天性を男子よりも劣るものと認《したた》め、女は陰性《いんしょう》なり、陰は暗しなど、漠然たる精神論を根本にして説を立つるが如きは、妄漫無稽《ぼうまんむけい》と称すべきなれども、その他は大抵|皆《みな》女子を戒めたる言の濃厚なるものに過ぎず。我輩がかつて戯れに古人の教えを評し、町家の売物に懸直《かけね》あるが如しといいしもこの辺の意味にして、『女大学』の濃厚|苛刻《かこく》なる文面を正面より受取り、その極端を行わんとするは、とても実際に叶《かな》わざることなれども、さりとて教えの言として見れば道理に差支《さしつかえ》あるべからず、ただ独り女子のみを責むることなく、男子をもこの教えの範囲内に入れて慎む所あらしむれば、その主義|甚《はなは》だ美なるもの多し。
 例えばその文の大意に嫉妬の心あるべからずというも、片落《かたおち》に婦人のみを責むればこそ不都合なれども、男女双方の心得としては争うべからざるの格言なるべし。また姦《かしま》しく多言《たげん》するなかれ、漫《みだ》りに外出するなかれというも、男女共にその程度を過ぐるは誉《ほ》むべきことにあらず。また巫覡《ふけん》に迷うべからず、衣服|分限《ぶんげん》に従うべし、年|少《わか》きとき男子と猥《な》れ猥れしくすべからず云々は最も可なり。また夫《おっと》を主人として敬うべしというは、女子より言を立てて一方に偏するが故に不都合なるのみ。けだし主人とするとは敬礼の極度を表したるものなれば、男子の方より婦人に対し、夫婦の間は必ず敬礼を尽し、ただにその内君《ないくん》を親愛するのみならず、時としては君に事《つか》うるの礼を以てこれを接すべしといえば、夫を主人とするの語も、また差支なかるべし。されば我輩、婦人の地位を高くするの議論は満腹|溢《あふ》るるが如くにして、自《おの》ずからその方便もなきにあらずといえども、これは他日に譲り、今日の目的は今の婦人の地位をばそのままに差置き、『女大学』をも大抵の処まではこれを潰《つぶ》さずして、かえって男子をしてこの『女大学』の主義に従わしめ、以て男子の品行を糺《ただ》して双方を併行《へいこう》の点に維持せんとするにあるものなり。
 今その然る所以《ゆえん》の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然《しか》り而《しこう》してその男子の如くなるや、知識気力の深浅強弱|如何《いかん》の辺に止《とど》まり、専《もっぱ》ら精神を練るの教えを主として、当局の婦人においても、その範囲を脱せざれば甚だ佳《よ》しといえども、文明の事は有形の門より入るもの多きの例なれば、婦人の教育についてもその形を先にし、先ず衣裳を改めて文明の風を装い、交際を開いて文明の盛事を学び、只管《ひたすら》外国婦人の所業に傚《なろ》うて活溌《かっぱつ》を気取り、外面の虚飾を張りてかえって裏面の実を忘れ、活溌は漸《ようや》く不作法に変じ、虚飾は遂に家計を寒からしめ、未だ西洋文明の精神を得ずして、早く既に自家遺伝の美徳美風を失うことなきを期すべからず。これらの弊害は事物の新旧交代の際に多少免るべからざるものとしてこれを忍ぶも、ここに忍ぶべからざるは、その弊害の極度に至り、今の婦人が男子の挙動に傚《なら》わんとして、今の日本男子の品行を学ぶが如きあらばこれを如何《いかん》すべきや。日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽《おお》い、時として潔清《けっせい》義烈《ぎれつ》の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の婦人と西洋諸国の婦人と相対するときは、我に愧《は》ずる所なきのみならず、往々|上乗《じょうじょう》に位《くらい》して、かの婦人の能《よ》くせざる所を能くし、その堪えざる所に堪え、彼をして慚死《ざんし》せしむるものさえ少なからず。内外人の共に許す所にして、即ち我が大日本の国光として誇るべきものなり。もしも年来日本男子をしてその醜行を恣《ほしいまま》にせしめて、一方に良家婦徳の凜然《りんぜん》たるものなからしめなば、我が社会はほとんど暗黒世界たるべきはずなるに、幸いにしてその然《しか》らざるは、これを良婦人の賜《たまもの》といわざるを得ず。
 然るに今日において、未だ男子の奔逸《ほんいつ》を縛《ばく》するの縄は得ずして、先ずこの良家の婦女子を誘《いざの》うて有形の文明に入らしめんとす、果たして危険なかるべきや。居《きょ》は志《し》を移すという。婦女子の精神|未《いま》だ堅固ならざる者を率いて有形の文明に導くは、その居《きょ》を変ずるものなり。その居|既《すで》に変じてその志《し》はいかに移るべきや。近く喩《たと》えを取り、今日の婦人女子をして、その良人《りょうじん》父兄の品行を学ぶことあらしめたらばこれを如何《いかん》せん。試みに男子の胸裡《きょうり》にその次第の図面を画《えが》き、我が妻女がまさしく我に傚《なら》い、我が花柳に耽《ふけ》ると同時に彼らは緑陰に戯れ、昨夜自分は深更《しんこう》家に帰りて面目《めんぼく》なかりしが、今夜は妻女|何処《いずく》に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに磊落《らいらく》なる男子も慚愧《ざんき》に堪えざるのみならず、これは世教《せいきょう》のために大変なりとて、自ら悚然《しょうぜん》たることならん。然るに婦女子の志の有形無心の文明に誘《いざな》われて漸《ようや》く活溌に移るの最中、あるいはこの想像画をして実ならしむるなきを期すべからず、恐るべきにあらずや。男子の不品行は既に日本国の禍源たり、これに加うるに女子の不品行を以てす、国のために不幸を二重にするものというべし。男子社会の不品行にして忌憚《きたん》するなきその有様は、火の方《まさ》に燃ゆるが如し。徳教の急務は百事を抛《なげう》ち先ずこの火を消すにあるのみ。婦人の地位を高尚にするの新案は、あたかも我が国|未曾有《みぞう》の家屋を新築するものにして、我輩|固《もと》より意見を同じうするのみならず、敢えて発起者中の一部分を以て自ら居《お》る者なれども、満目《まんもく》焔々《えんえん》たる大火の消防に忙《せ》わしくして、なお未だ新築に遑《いとま》あらず。故に今後は、我輩の筆力のあらん限り、読者と共にこの消防法に従事して、先ず婦人の居《きょ》を安からしめ、漸《ようや》くその改良に着手せんと欲するものなり。



底本:「福沢諭吉家族論集」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第9巻」岩波書店
   1981(昭和56)年1月26日第1刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1888(明治21)年1月13日〜24日
入力:田中哲郎
校正:うきき
2009年1月13日作成
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