て、甚だ大切なるものなれども、人に教うるに先ずこの公徳を以てして、居家の私徳を等閑《なおざり》にするにおいては、あたかも根本の浅き公徳にして、我輩は時にその動揺なきを保証する能《あた》わざるものなり。
 そもそも一国の社会を維持して繁栄幸福を求めんとするには、その社会の公衆に公徳なかるべからず。その公徳をして堅固ならしめんとするには、根本を私徳の発育に取らざるべからず。即ち国の本は家にあり。良家の集まる者は良国にして、国力の由《よ》って以《もっ》て発生する源は、単に家にあって存すること、更に疑うべきにあらず。然《しか》り而《しこう》してその家の私徳なるものは、親子・兄弟姉妹、団欒《だんらん》として相親しみ、父母は慈愛厚くして子は孝心深く、兄弟姉妹相助けて以て父母の心身の労を軽くする等の箇条にして、能《よ》くこの私徳を発達せしむるその原因は、家族の起源たる夫婦の間に薫《くん》ずる親愛恭敬の美にあらざるはなし。
 およそ古今世界に親子不和といい兄弟姉妹相争うというが如き不祥の沙汰《さた》少なからずして、当局者の罪に相違はなけれども、一歩を進めて事の原因を尋ぬれば、その父母たる者が夫婦の関係を等閑《なおざり》にしたるにあり。なお進んで吟味を遠くすれば、その父母の父母たる祖父母より以上|曾祖《そうそ》玄祖《げんそ》に至るまでも罪を免るべからず。前節にもいえる如く、人の心の不徳は身の病に異ならず、病毒の力|能《よ》く四、五世に遺伝するものなれば、不徳の力もまた四、五世に伝えて禍《わざわい》せざるを得ず。されば公徳の根本は一家の私徳にありて、その私徳の元素は夫婦の間に胚胎《はいたい》すること明々白々、我輩の敢《あ》えて保証する所のものなれば、男女両性の関係は立国の大本、禍福の起源として更に争うべからず。今日吾々日本国民の形体は、伊奘諾・伊奘冊|二尊《にそん》の遺体にして、吾々の依《よ》って以《もっ》て社会を維持する私徳公徳もまた、その起源を求むれば、二尊夫婦の間に行われたる親愛恭敬の遺徳なりと知るべし。
 夫婦親愛恭敬の徳は、天下万世百徳の大本《たいほん》にして更に争うべからざるの次第は、前《ぜん》既にその大意を記《しる》して、読者においても必ず異議はなかるべし。そもそも我輩がここに敬の字を用いたるは偶然にあらず。男女肉体を以て相《あい》接《せっ》するものなれば、仮令《たと》えいかなる夫婦にても一時の親愛なきを得ず。動物たる人類の情において然《しか》りといえども、人類をして他の動物の上に位《くらい》して万物の霊たらしむる所以《ゆえん》のものは、この親愛に兼ねて恭敬の誠あるに由《よ》るのみ。これを通俗にいえば、夫婦の間、相互いに隔てなくして可愛がるとまでにては未だ禽獣と区別するに足らず。一歩を進め、夫婦互いに丁寧にし大事にするというて、始めて人の人たる所を見るに足るべし。即ち敬の意なり。
 然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法|如何《いかん》と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来《きた》ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風《くふう》を運《めぐ》らさざるべからず。いわんや己れの欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事にして、徹頭徹尾、恕《じょ》の一義を忘れず、形体《からだ》こそ二個《ふたり》に分かれたれども、その実は一身同体と心得て、始めて夫婦の人倫を全うするを得べし。故に夫婦家に居《お》るは人間の幸福快楽なりというといえども、本来この夫婦は二個の他人の相《あい》合《お》うたるものにして、その心はともかくも、身の有様《ありさま》の同じかるべきにあらず。夫婦おのおのその親戚を異《こと》にし、その朋友を異にし、これらに関係する喜憂は一方の知らざる所なれども、既に一身同体とあれば、その喜憂を分かたざるを得ず。また平生《へいぜい》の衣食住についても、おのおの好悪《こうお》する所なきを期すべからずといえども、互いに忍んでその好悪に従わざるべからず。またあるいは一方の病気の如き、固《もと》より他の一方に痛痒《つうよう》なけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人《りょうじん》五年の中風症《ちゅうふうしょう》、死に至るまで看護怠らずといい、内君《ないくん》七年のレウマチスに、主人は家業の傍《かたわ》らに自ら薬餌《やくじ》を進め、これがために遂に資産をも傾けたるの例なきにあらず。
 これらの点より見れば、夫婦同室は決して面白きものにあらず。独身なれば、親戚朋友の附合《つきあい》もただ一方にして余計の心配なく、衣食住の物とて自分|一人《ひとり》の気に任せて不自由なく、病気も一身の病気にして他人の病を憂うるに及ばざるに、ただ夫婦の約束したるがために、あたかも一生の苦労を二重にしたる姿となり、一人にして二人前の勤めを勤むるの責《せめ》に当たるは不利益なるが如くなれども、およそ人間世界において損益苦楽は常に相《あい》伴《ともの》うの約束にして、俗にいわゆる丸儲《まるもう》けなるものはなきはずなり。故に夫婦家に居て互いに苦労を共にするは、一方において二重の苦労に似たれども、その苦労の代りには一人の快楽を二人の間に共にして、即ち二重の快楽なれば、つまり損亡《そんもう》とてはなくして苦楽|相《あい》償《つぐの》い、平均してなお余楽《よらく》あるものと知るべし。
 されば夫婦家に居《お》るは必ずしも常に快楽のみに浴すべきものにあらず、苦楽相平均して幸いに余楽を楽しむものなれども、栄枯無常の人間世界に居れば、不幸にしてただ苦労にのみ苦しむこともあるべき約束なりと覚悟を定めて、さて一夫多妻、一婦|多男《ただん》は、果たして天理に叶《かな》うか、果たして人事の要用、臨時の便利にして害なきものかと尋ぬるに、我輩は断じて否《いな》と答えざるを得ず。天の人を生ずるや男女同数にして、この人類は元《もと》一対の夫婦より繁殖したるものなれば、生々《せいせい》の起原に訴うるも、今の人口の割合に問うも、多妻多男は許すべからず。然らば人事の要用、臨時の便利において如何《いかん》というに、人間世界の歳月を短きものとし、人生を一代限りのものとし、あたかも今日の世界を挙げて今日の人に玩弄《がんろう》せしめて遺憾なしとすれば、多妻多男の要用便利もあるべし。世事《せじ》繁多《はんた》なれば一時夫婦の離れ居ることもあり、また時としては病気災難等の事も少なからず。これらの時に当たっては夫婦一対に限らず、一夫|衆婦《しゅうふ》に接し、一婦|衆男《しゅうだん》に交わるも、木石《ぼくせき》ならざる人情の要用にして、臨時非常の便利なるべしといえども、これは人生に苦楽相伴うの情態を知らずして、快楽の一方に着眼し、いわゆる丸儲けを取らんとする自利の偏見にして、今の社会を害するのみならず、また後世のために謀《はか》りて許すべからざる所のものなり。
 男女にして一度《ひとた》びこれを犯すときは、既に夫婦の大倫を破り、恕《じょ》の道を忘れて情を痛ましめたるものにして、敬愛の誠はこの時限りに断絶せざるを得ず。仮令《たと》えあるいは種々様々の事情によりて外面の美を装うことなきにあらずといえども、一点の瑕瑾《かきん》、以て全璧《ぜんぺき》の光を害して家内の明《めい》を失い、禍根|一度《ひとた》び生じて、発しては親子の不和となり、変じては兄弟姉妹の争いとなり、なお天下後世を謀れば、一家の不徳は子々孫々と共に繁殖して、遂に社会公徳の根本を薄弱ならしむるに至るべし。故に云《いわ》く、多妻多男の法は今世《こんせい》を挙げて今人《こんじん》の玩弄物《がんろうぶつ》に供するの覚悟なれば可なりといえども、天下を万々歳の天下として今人をして後世に責任あらしめんとするときは、我輩は一時の要用便利を以て天下後世の大事に易《か》うること能わざる者なり。
 男女両性の関係は至大至重のものにして、夫婦同室の約束を結ぶときは、これを人の大倫と称し、社会百福の基《もとい》、また百不幸の源たるの理由は、前に陳《の》べたる所を以て既に明白なりとして、さて古今世界の実際において、両性のいずれかこの関係を等閑《なおざり》にして大倫を破るもの多きやと尋ぬれば、常に男性にありと答えざるを得ず。西洋文明の諸国においても皆|然《しか》らざるはなきその中についても、日本の如きは最も甚だしきものにして、古来の習俗、一男多妻を禁ぜざるの事実を見ても、大概を窺《うかが》い見るべし。西洋文明国の男女は果たして潔清《けっせい》なりやというに、決して然らず、極端について見れば不潔の甚だしきもの多しといえども、その不潔を不潔としてこれを悪《にく》み賤《いや》しむの情は日本人よりも甚だしくして、輿論《よろん》の厳重なることはとても日本国の比にあらず。故に、かの国々の男子が不品行を犯すは、初めよりその不品行なるを知り、あたかも輿論に敵して窃《ひそ》かにこれを犯すことなれば、その事はすべて人間の大秘密に属して、言う者もなく聞く者もなく、事実の有無にかかわらず外面の美風だけはこれを維持してなお未だ破壊に至らずといえども、不幸なるは我が日本国の旧習俗にして、事の起源は今日、得て詳《つまび》らかにするに由《よし》なしといえども、古来家の血統を重んずるの国風にして、嗣子《しし》なく家名の断絶する法律さえ行われたるほどの次第にて、頻《しき》りに子を生むの要用を感じ、その目的を達するには多妻法より便利なるものなきが故に、ここにおいてか妾《しょう》を畜《やしな》うの風を成したるものの如し。天理の議論などはともかくも、家名を重んずるの習俗に制せられて、止《や》むを得ず妾を畜うの場合に至りしは無理もなきことにして、またこれ一国の一主義として恕《じょ》すべきに似たれども、天下後世これより生ずる所の弊害は、実に筆紙《ひっし》にも尽し難きものあり。
 さなきだに人類の情慾は自《おの》ずから禁じ難きものなるに、ここに幸いにも子孫相続云々の一主義あることなれば、この義を拡《おしひろ》めていかなる事か行わるべからざらんや。妻を離別するも可なり、妾《しょう》を畜《やしな》うも可なり、一妾にして足らざれば二妾も可なり、二妾三妾随時随意にこれを取替え引替うるもまた可なり。人事の変遷、長き歳月を経《ふ》る間には、子孫相続の主義はただに口実として用いらるるのみならず、早く既にその主義をも忘却し、一男にして衆婦人に接するは、あたかも男子に授けられたる特典の姿となり、以て人倫不取締の今日に至りしは、国民一家の不幸に止《とど》まらず、その禍《わざわい》は引いて天下に及ぼし、一家の私徳|先《ま》ず紊《みだ》れて社会交際の公徳を害し、立国の大本《たいほん》、動揺せざらんと欲するも得《う》べからず。故に今日の日本男子にして内行《ないこう》の修まらざる者は、単に自家子孫の罪人のみにあらず、社会中の一人として、今の天下に対しまた後世に対して、その罪|免《まぬか》るべからざるものなり。
 主人の内行《ないこう》修まらざるがために、一家内に様々の風波を起こして家人の情を痛ましめ、以てその私徳の発達を妨げ、不孝の子を生じ、不悌《ふてい》不友《ふゆう》の兄弟姉妹を作るは、固《もと》より免るべからざるの結果にして、怪しむに足らざる所なれども、ここに最も憐《あわ》れむべきは、家に男尊女卑の悪習を醸《かも》して、子孫に圧制卑屈の根性を成さしむるの一事なり。男子の不品行は既に一般の習慣となりて、人の怪しむ者なしというといえども、人類天性の本心において、自ら犯すその不品行を人間の美事《びじ》として誇る者はあるべからず。否《いな》百人は百人、千人は千人、皆これを心の底に愧《は》じざるものなし。内心にこれを愧じて外面に傲慢なる色を装い、磊落《らいらく》なるが如く無頓着なるが如くにして、強いて自ら慰むるのみなれども、俗にいわゆる疵《きず》持つ身にして、常に悠々として安心するを得
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング