るその中に居て独り寡慾《かよく》なるが如き、詐偽《さぎ》の行わるる社会に独り正直なるが如き、軽薄無情の浮世に独り深切《しんせつ》なるが如き、いずれも皆抜群の嗜《たしな》みにして、自信自重の元素たらざるはなし。如何《いかん》となれば、書生の勉強、僧侶の眠食は身体の苦痛にして、寡慾、正直、深切の如きは精神の忍耐、即ち一方よりいえばその苦痛なればなり。
されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾|潔清《けっせい》の節を守り、俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色《がんしょく》をも犯し、世を挙《こぞ》って皆酔うの最中、独り自ら醒《さ》め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業《しゅぎょう》にあらず。即ち木石《ぼくせき》ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩《おさ》めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴《ふうき》または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの
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