れを悦《よろこ》ばず、儒仏耶蘇、いずれにてもこれに偏するは不便なり、つまり自愛に溺《おぼ》れず、博愛に流れず、まさにその中道を得たる一種の徳教を作らんというものあり。これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身に切《せつ》ならずして他に関係するものの如し。一身の私徳を後《のち》にして、交際上の公徳を先にするものの如し。即ち家に居《お》るの徳義よりも、世に処するの徳義を専《もっぱ》らにするものの如し。この一点において我輩が見る所を異《こと》にすると申すその次第は、敢《あ》えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。
世界|開闢《かいびゃく》の歴史を見るに、初めは独化《どっか》の一人《いちにん》ありて、後《のち》に男女夫婦を生じたりという。我が日本において、国常立尊《くにのとこたちのみこと》の如きは独化の神にして、伊奘諾尊《いざなぎのみこと》、伊奘冊尊《いざなみのみこと》は則《すなわ》ち夫婦の神なり。西洋においても、先ずエデンの園に現われたる人はアダムにして、後にイーブなる女性を
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