を改めて文明の風を装い、交際を開いて文明の盛事を学び、只管《ひたすら》外国婦人の所業に傚《なろ》うて活溌《かっぱつ》を気取り、外面の虚飾を張りてかえって裏面の実を忘れ、活溌は漸《ようや》く不作法に変じ、虚飾は遂に家計を寒からしめ、未だ西洋文明の精神を得ずして、早く既に自家遺伝の美徳美風を失うことなきを期すべからず。これらの弊害は事物の新旧交代の際に多少免るべからざるものとしてこれを忍ぶも、ここに忍ぶべからざるは、その弊害の極度に至り、今の婦人が男子の挙動に傚《なら》わんとして、今の日本男子の品行を学ぶが如きあらばこれを如何《いかん》すべきや。日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽《おお》い、時として潔清《けっせい》義烈《ぎれつ》の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の婦人と西洋諸国の婦人と相対するときは、我に愧《は》ずる所なきのみならず、往々|上乗《じょうじょう》に位《くらい》して、かの婦人の能《よ》くせざる所を能くし、その堪えざる所に堪え、彼をして慚死《ざんし》せしむるものさえ少なからず。内外人の共に許す所にして、即ち我が大日本の国光として誇るべきものなり。もしも年来日本男子をしてその醜行を恣《ほしいまま》にせしめて、一方に良家婦徳の凜然《りんぜん》たるものなからしめなば、我が社会はほとんど暗黒世界たるべきはずなるに、幸いにしてその然《しか》らざるは、これを良婦人の賜《たまもの》といわざるを得ず。
 然るに今日において、未だ男子の奔逸《ほんいつ》を縛《ばく》するの縄は得ずして、先ずこの良家の婦女子を誘《いざの》うて有形の文明に入らしめんとす、果たして危険なかるべきや。居《きょ》は志《し》を移すという。婦女子の精神|未《いま》だ堅固ならざる者を率いて有形の文明に導くは、その居《きょ》を変ずるものなり。その居|既《すで》に変じてその志《し》はいかに移るべきや。近く喩《たと》えを取り、今日の婦人女子をして、その良人《りょうじん》父兄の品行を学ぶことあらしめたらばこれを如何《いかん》せん。試みに男子の胸裡《きょうり》にその次第の図面を画《えが》き、我が妻女がまさしく我に傚《なら》い、我が花柳に耽《ふけ》ると同時に彼らは緑陰に戯れ、昨夜自分は深更《しんこう》家に帰りて面目《めんぼく》なかりしが、今夜は妻女|何処《いずく》に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに磊落《らいらく》なる男子も慚愧《ざんき》に堪えざるのみならず、これは世教《せいきょう》のために大変なりとて、自ら悚然《しょうぜん》たることならん。然るに婦女子の志の有形無心の文明に誘《いざな》われて漸《ようや》く活溌に移るの最中、あるいはこの想像画をして実ならしむるなきを期すべからず、恐るべきにあらずや。男子の不品行は既に日本国の禍源たり、これに加うるに女子の不品行を以てす、国のために不幸を二重にするものというべし。男子社会の不品行にして忌憚《きたん》するなきその有様は、火の方《まさ》に燃ゆるが如し。徳教の急務は百事を抛《なげう》ち先ずこの火を消すにあるのみ。婦人の地位を高尚にするの新案は、あたかも我が国|未曾有《みぞう》の家屋を新築するものにして、我輩|固《もと》より意見を同じうするのみならず、敢えて発起者中の一部分を以て自ら居《お》る者なれども、満目《まんもく》焔々《えんえん》たる大火の消防に忙《せ》わしくして、なお未だ新築に遑《いとま》あらず。故に今後は、我輩の筆力のあらん限り、読者と共にこの消防法に従事して、先ず婦人の居《きょ》を安からしめ、漸《ようや》くその改良に着手せんと欲するものなり。



底本:「福沢諭吉家族論集」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第9巻」岩波書店
   1981(昭和56)年1月26日第1刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1888(明治21)年1月13日〜24日
入力:田中哲郎
校正:うきき
2009年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全15ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング