子孫に遺すのみならず、内行不取締は醜聞を世界万国に放つものにして、自国の名声を害するの罪人なり云々とて、筆鋒の向かう所は専《もっぱ》ら男子にして、婦人の地位|如何《いかん》に論及したることなし。そもそも我が国の婦人を男子に比較するときは、全く地位を殊《こと》にし、居家《きょか》内実の権力はともかくも、戸外交際の事に至りてはすべて男子のために専らにせられて、婦人は有れども無きに異ならず。特に男子が多妻の醜行を犯して婦人の情を痛ましむるが如き、ただに自愛に偏するのみならず私曲私慾の最も甚だしきものにして、更に一言の弁論あるべからず。我輩は常に世の道徳論者の言を聞き、論者が特にこの大切なる一点をば軽々《けいけい》看過してあたかも不問に附する者多きを見て窃《ひそ》かに怪しむのみか、その無識を冷笑するほどの次第なれば、大いに婦人の地位を推《お》してこれを高処に進め、以て男子に拮抗《きっこう》せしめんとするの考案なきにあらず。徹頭徹尾、今の婦人と今の男子とを相対照して今の関係にあらしむるは、我輩のあくまでも悦《よろこ》ばざる所なれども、眼を転じて一方より考うれば、本来物の高低・強弱・大小等は相対の関係にして絶対の義にあらず。高きものあればこそ低きものもあり、強大あればこそ小弱もあり。故に今、婦人の地位を低しというも、男子の地位を引下げて併行《へいこう》するに至らしむれば、男女の権力平等なりというべし。あるいは婦人は今のままにして、男子の地位をして一層の下に就《つ》かしむれば、女権特に高しというべし。これ即ち我輩が独り男子を目的にして論鋒を差向けたる所以《ゆえん》なり。
然るにここに支那学の古流に従って、女子のために特に定めたる教義あり。その義は諸書に記して多き中について、我が国普通の書を『女大学』と称し、女教の大要を陳《の》べたるものなるが、書中往々不都合にして解すべからざるものなきにあらず。例えば女子の天性を男子よりも劣るものと認《したた》め、女は陰性《いんしょう》なり、陰は暗しなど、漠然たる精神論を根本にして説を立つるが如きは、妄漫無稽《ぼうまんむけい》と称すべきなれども、その他は大抵|皆《みな》女子を戒めたる言の濃厚なるものに過ぎず。我輩がかつて戯れに古人の教えを評し、町家の売物に懸直《かけね》あるが如しといいしもこの辺の意味にして、『女大学』の濃厚|苛刻《かこく》なる文面を正面より受取り、その極端を行わんとするは、とても実際に叶《かな》わざることなれども、さりとて教えの言として見れば道理に差支《さしつかえ》あるべからず、ただ独り女子のみを責むることなく、男子をもこの教えの範囲内に入れて慎む所あらしむれば、その主義|甚《はなは》だ美なるもの多し。
例えばその文の大意に嫉妬の心あるべからずというも、片落《かたおち》に婦人のみを責むればこそ不都合なれども、男女双方の心得としては争うべからざるの格言なるべし。また姦《かしま》しく多言《たげん》するなかれ、漫《みだ》りに外出するなかれというも、男女共にその程度を過ぐるは誉《ほ》むべきことにあらず。また巫覡《ふけん》に迷うべからず、衣服|分限《ぶんげん》に従うべし、年|少《わか》きとき男子と猥《な》れ猥れしくすべからず云々は最も可なり。また夫《おっと》を主人として敬うべしというは、女子より言を立てて一方に偏するが故に不都合なるのみ。けだし主人とするとは敬礼の極度を表したるものなれば、男子の方より婦人に対し、夫婦の間は必ず敬礼を尽し、ただにその内君《ないくん》を親愛するのみならず、時としては君に事《つか》うるの礼を以てこれを接すべしといえば、夫を主人とするの語も、また差支なかるべし。されば我輩、婦人の地位を高くするの議論は満腹|溢《あふ》るるが如くにして、自《おの》ずからその方便もなきにあらずといえども、これは他日に譲り、今日の目的は今の婦人の地位をばそのままに差置き、『女大学』をも大抵の処まではこれを潰《つぶ》さずして、かえって男子をしてこの『女大学』の主義に従わしめ、以て男子の品行を糺《ただ》して双方を併行《へいこう》の点に維持せんとするにあるものなり。
今その然る所以《ゆえん》の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然《しか》り而《しこう》してその男子の如くなるや、知識気力の深浅強弱|如何《いかん》の辺に止《とど》まり、専《もっぱ》ら精神を練るの教えを主として、当局の婦人においても、その範囲を脱せざれば甚だ佳《よ》しといえども、文明の事は有形の門より入るもの多きの例なれば、婦人の教育についてもその形を先にし、先ず衣裳
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