読倫理教科書
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)取捨《しゅしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御送付|相成《あいなり》

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(例)[#ここから2字下げ]
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 過般、榎本文部大臣が地方官に向って徳育の事を語り、大臣は儒教主義をとる者にして、いずれ近日儒教の要を取捨《しゅしゃ》して、学生のために一書を編纂せしむべしとのことなり。然るに、徳教書編纂の事は、先年も文部省に発起して、すでに故森大臣の時に(明治二十年)倫理教科書を草し、その草案を福沢先生に示して批評を乞いしに、その節、先生より大臣に贈りたる書翰ならびに評論一編あり。久しく世人の知らざるところなりしかども、今日また徳教論の再発にさいし、その贈書の草稿を左に記して、読者の参考に供す。

      書翰
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過般、御送付|相成《あいなり》候『倫理教科書』の草案、閲見《えっけん》、少々意見も有之《これあり》、別紙に認《したため》候。妄評御海恕|被下度《くだされたく》、此段、得貴意《きいをえ》候也。
[#ここで字下げ終わり]
      五月  日[#地から2字上げ]福沢諭吉
     森文部大臣殿

 倫理教科書の目的は、人の徳心を養成せんとするにあるか、ただしは人をして人心の働《はたらき》を知らしめんとするにあるか。けだし心理を知る者、必ずしも徳行の君子に非ず、徳行の君子、つねに心理学に明らかなるものに非ず。両者の間に区別あるは、もとより論をまたざるところなり。本書すでに教科書の名あるからには、これによりて少年学生輩の徳心を誘導して、純良の君子たらしめんとの目的なるべし。
 然らばすなわち、徳行の条目を示し、人たるものはかくあるべし、かくあるべからずと、ていねい反覆その利害を説明して、少年の心を薫陶《くんとう》するこそ、徳育の本意なるべきに、全編の文面を概すれば、むしろ心理学の解釈とも名づくべきものにして、読者をしておよそ人心の働を知り、その運動の様《さま》を了解せしむるには足るべしといえども、これによりて徳心の発育を促すの効用いかんにおいては、いささか足らざるものあるが如し。
 されども編末の備考に、「この書に載するところはただ倫理の要領のみにして、広く例を集めつまびらかに証を示すの業は、教師の本分としてこれを略せり。」とあるがゆえに、中学校、師範学校の教師が、本書を講ずるときに、種々様々の例証を引用して、学生の徳行を導くことならん。ずいぶん易《やす》からざる業なれども、しばらく実際に行わるべきものとしてこれにしたがうも、なお遺憾なきを得ず。
 そもそも本書全面の立言は、人生戸外の公徳を主として、家内私徳の事には深く論及するところを見ず。然るに鄙見《ひけん》はまったくこれに反し、人間の徳行を公私の二様に区別して、戸外公徳の本源を家内の私徳に求め、またその私徳の発生は夫婦の倫理に原因するを信ずるものなり。本来、社会|生々《せいせい》の本《もと》は夫婦にあり。夫婦の倫《りん》、紊《みだ》れずして、親子の親《しん》あり、兄弟姉妹の友愛あり。すなわち人間の家(ホーム)を成すものにして、これを私徳の美という。内に私徳の修まるあれば、外に発して朋友の信となり、治者被治者の義となり、社会の交際法となるべし。
 けだし社会は個々の家よりなるものにして、良家の集合すなわち良社会なれば、徳教究竟の目的、はたして良社会を得んとするにあるか、須《すべか》らく本《もと》に返りて良家を作るべし。良家を作るの法は、兄弟姉妹をして友愛ならしめ、親子をして親ならしむるにあり。而《しこう》してその本源は、夫婦の倫理に発するものと知るべし。ゆえに少年の学生に徳を教うる教科書は、たんに私徳の要を説き、まず良家の良子女たらしめ、然る後に社会公徳の教に移るべきはずなるに、本書の立言、あるいはその要を欠くものの如し。
 今かりに一歩を譲り、倫理教科書中、私徳のことに説き及ぼさざるに非ず、「一家の間は専ら親愛をもってなる云々、一夫一妻にしてその間に尊卑の幣を免かるるは云々」等の語さえあれば、私徳の要ももとより重んずるところなりと説を作《な》すも、本書をもって学校の教科書となすにおいては、なお不可なるものあり。
 およそ徳教の書は、古聖賢の手になり、またその門に出でしものにして、主義のいかんにかかわらず、天下後世の人がその書を尊信するは、その聖賢の徳義を尊信するがゆえなり。支那の四書五経といい、印度の仏経といい、西洋のバイブルといい、孔孟、釈迦、耶蘇《ヤソ》、その人の徳高きがゆえに、書もまたともに光を生じて、人とともに信を得ることなり。かりに今日、坊間《ぼうかん》の一男子が奇言を吐《
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