は》くか、または講談師の席上に弁じたる一論が、偶然にも古聖賢の旨にかなうとするも、天下にその言論を信ずる者なかるべし。如何《いかん》となれば、その言の尊からざるに非ざれども、徳義上にその人を信ずるに足らざればなり。
然るに今、倫理教科書は文部省撰とあり。省中|何人《なんぴと》の手になりしや。その人は果して完全高徳の人物にして、私徳公徳に欠くるところなく、もって天下衆人の尊信を博するに足るべきや。諭吉においては、文部省中にかかる人物あるべきを信ぜざるのみならず、日本国中にその有無を疑う者なり。
あるいはこの撰は、一個人の意見に非ずして、一省の協議になりしものなりといわんか。とりもなおさず日本政府の撰びたる倫理論なり。然《しか》らばすなわち、今の日本政府を日本国民一種族の集合体として、この集合体ははたして徳義の叢淵《そうえん》にして、ことに百徳の根本たる家の私徳を重んじ、身の内行《ないこう》を厳にして、つねに衆庶《しゅうしょ》の景慕するところなるやというに、諭吉、またこれを信ずるを得ず。
あるいはいわく、倫理教科書は道徳の新主義をつくりたるに非ず、東西先哲の論旨を述べてその要を示したるまでのものなれば、その何人《なんぴと》の手になり、また何《いずれ》の辺より出でたる云々の詮索は、無益の論なりとの説もあらんなれども、鄙見《ひけん》をもってすれば決して然らず。貝原益軒翁が、『養生訓』を著わし、『女大学』を撰して、大いに世の信を得たるは、八十の老翁が自身の実験をもって養生の法を説き、誠実温厚の大儒先生にして女徳の要を述べたるがゆえに然るのみ。もしもこの『養生訓』、『女大学』をして、益軒翁以下、尋常文人の手にならしめなば、折角の著書もさまでの声価を得ざりしことならん。
この他、『唐詩選』の李于鱗《りうりん》における、百人一首の定家《ていか》卿における、その詩歌《しいか》の名声を得て今にいたるまで人口に膾炙《かいしゃ》するは、とくに選者の学識いかんによるを見るべし。わずかに詩歌の撰にして、なおかつ然り。いわんや道徳の教書たる倫理教科書の如きにおいてをや。たとえ述べて作らずというも、その撰者・述者に帰するところの責任は、もっとも重きものなりと覚悟せざるべからず。
されば今、これを公にして官公の学校に用うるにあたり、書中|所記《しょき》の主義いかんに論なく、大いに天下の尊信を博すべきや否やの一段にいたりては、諭吉の保証すること能わざるところのものなり。倫理道徳の書にして尊信の一大要義を欠くときは、たとえこれを教うるも、いたずらに論議批評の媒介となりて、学生中においても、ひそかに是非《ぜひ》喋々《ちょうちょう》の言を聞くことあるべし。
ここにおいてか、これを教うる者は、もとより少年学生輩の是非論を許すべきに非ざれば、陰に陽にさまざまの方便を用いて、その黙従を促さざるをえず。すなわち人に徳教を強ゆるものにして、その教のよって来たるところの本源は政府にありという。諭吉は政府のためを謀《はかっ》て惜む者なり。
ゆえに本書の如きは民間一個人の著書にして、その信不信をばまったく天下の公論に任じ、各人自発の信心をもってこれを読ましむるは、なお可なりといえども、いやしくも政府の撰に係るものを定めて教科書となし、官立・公立の中学校・師範学校等に用うるは、諭吉の服せざるところなり。いわんや書中の立言、公徳論を先にして私徳に論及すること少なきにおいてをや。少年学生等のために適したるものというべからざるなり。
[#地から2字上げ]福沢諭吉 妄評
底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福澤諭吉全集 第12巻」岩波書店
1960(昭和35)年10月1日初版発行
1970(昭和45)年9月14日再版発行
初出:「時事新報」時事新報社
1890(明治23)年3月18日
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2009年6月12日作成
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