ば、この際にあたりて徳教の働ももとより消滅するに非ずといえども、おのずから輿論に適するがために、大いにその装《よそおい》を改めざるをえざるの時節なり。たとえば在昔《ざいせき》は、君臣の団結、国中三百所に相分れたる者が、今は一団の君臣となりたれば、忠義の風も少しく趣を変じて、古風の忠は今日に適せず。
在昔は三百藩外に国あるを知らずして、ただ藩と藩との間に藩権を争いしものも、今日は全国あたかも一大藩の姿となりて、在昔、藩権の精神は、面目を改めて国権論に変ぜざるをえず。在昔は、社会の秩序、すべて相《あい》依《よ》るの風にして、君臣、父子、夫婦、長幼、たがいに相依り相依られ、たがいに相《あい》敬愛し相敬愛せられ、両者相対して然る後に教を立てたることなれども、今日自主独立の教においては、まず我が一身を独立せしめ、我が一身を重んじて、自からその身を金玉《きんぎょく》視《し》し、もって他の関係を維持して人事の秩序を保つべし。
新に沐《もく》する者は必ず冠《かん》を弾《だん》し、新に浴する者は必ず衣を振うとは、身を重んずるの謂《いい》なり。我が身、金玉なるがゆえに、いやしくも瑕瑾《かきん》を生ずべからず、汚穢《おわい》に近接すべからず。この金玉の身をもって、この醜行は犯すべからず。この卑屈には沈むべからず。花柳《かりゅう》の美、愛すべし、糟糠《そうこう》の老大、厭《いと》うに堪えたりといえども、糟糠の妻を堂より下すは、我が金玉の身に不似合なり。長兄愚にして、我れ富貴なりといえども、弟にして兄を凌辱するは、我が金玉の身によくすべからず。ここに節を屈して権勢に走れば名利を得べしといえども、屈節もって金玉の身を汚すべからず。あたうるに天下の富をもってするも、授くるに将相の位をもってするも、我が金玉、一点の瑕瑾《かきん》に易《か》うべからず。一心ここにいたれば、天下も小なり、王公も賤《いや》し。身外無一物、ただ我が金玉の一身あるのみ。一身すでに独立すれば、眼《まなこ》を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を謀《はか》るも自然の順序なれば、自主独立の一義、もって君に仕うべし、もって父母に事《つか》うべし、もって夫婦の倫をまっとうし、もって長幼の序を保ち、もって朋友の信を固うし、人生居家の細目より天下の大計にいたるまで、一切の秩序を包羅《ほうら》して洩らすものあるべからず。
ゆえに我が輩においては、今世の教育論者が古来の典経《てんけい》を徳育の用に供せんとするを咎《とがむ》るには非ざれども、その経書の働を自然に任して正に今の公議輿論に適せしめ、その働の達すべき部分にのみ働をたくましゅうせしめんと欲する者なり。すなわち今日の徳教は、輿論にしたがいて自主独立の旨に変ずべき時節なれば、周公孔子の教も、また自主独立論の中に包羅してこれを利用せんと欲するのみ。
今の世態《せいたい》、はたして不遜軽躁に堪えざるか、自主独立の精神に乏しきがゆえなり。論者その人の徳義薄くして、その言論演説、もって人を感動せしむるに足らざるか、夫子《ふうし》自から自主独立の旨を知らざるの罪なり。天下の風潮は、つとに開進の一方に向いて、自主独立の輿論はこれを動かすべからず。すでにその動かすべからざるを知らば、これにしたがうこそ智者の策なれ。けだし、学校の教育をして順に帰《き》せしむること、流《ながれ》にしたがいて水を治むるが如くせんとはこの謂《いい》なり。
底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
1980(昭和55)年12月18日第1刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
1882(明治15)年10月21〜25日
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2007年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング