》の機に乗じて新政府に出身すれば、儼然たる正何位・従何位にして、旧君公と同じく朝《ちょう》に立つのみならず、君公かえって従《じゅう》にして、家来|正《せい》なるあり。なおなはなだしきは公《おおやけ》に旧君の名をもって旧家来の指令を仰ぎ、私《わたくし》にその宅に伺候《しこう》して依托することもあらん。
また、四民同権の世態に変じたる以上は、農商も昔日《せきじつ》の素町人《すちょうにん》・土百姓《どびゃくしょう》に非ずして、藩地の士族を恐れざるのみならず、時としては旧領主を相手取りて出訴に及び、事と品によりては旧殿様の家を身代限《しんだいかぎり》にするの奇談も珍しからず。昔年《せきねん》、馬に乗れば切捨てられたる百姓町人の少年輩が、今日借馬に乗て飛廻わり、誤って旧藩地の士族を踏殺すも、法律においてはただ罰金の沙汰あらんのみ。
また、封建|世禄《せいろく》の世において、家の次男三男に生れたる者は、別に立身の道を得ず。あるいは他の不幸にして男児なき家あれば、養子の所望を待ちてその家を相続し、はじめて一家の主人たるべし。次三男出身の血路は、ただ養子の一方のみなれども、男児なき家の数は少なくして、次三男出生の数は多く、需要供給その平均を得ずして、つねに父兄の家に養われ、ついには二世にして姪《おい》の保護を蒙《こうむ》りて死する者少なからず。これを家の厄介《やっかい》と称す。俗にいわゆる※[#「月+濂のつくり」、第4水準2−85−50]噛《すねかじり》なる者なり。すでに一家の厄介たり、誰れかこれを尊敬する者あらんや。いかなる才力あるも、※[#「月+濂のつくり」、第4水準2−85−50]噛はすなわち※[#「月+濂のつくり」、第4水準2−85−50]噛にして、ほとんど人に歯《よわい》せられず。
世禄の武家にしてかくの如くなれば、その風《ふう》はおのずから他種族にも波及し、士農工商、ともに家を重んじて、権力はもっぱら長男に帰し、長少の序も紊《みだ》れざるが如くに見えしものが、近年にいたりてはいわゆる腕前の世となり、才力さえあれば立身出世勝手次第にして、長兄愚にして貧なれば、阿弟《あてい》の智にして富貴なる者に軽侮せられざるをえず。ただに兄のみならず、前年の養子が朝野に立身して、花柳《かりゅう》の美なる者を得れば、たちまち養家|糟糠《そうこう》の細君を厭《いと》い、養父母に談じて自身を離縁せよ放逐せよと請求するは、その名は養家より放逐せられたるも、実は養子にして養父母を放逐したるものというべし。「父子|有親《しんあり》、君臣|有義《ぎあり》、夫婦|有別《べつあり》、長幼|有序《じょあり》」とは、聖人の教にして、周公孔子のもって貴きゆえんなれども、我が輩は右の事実を記して、この聖教の行われたるところを発見すること能わざるものなり。
然りといえども、以上枚挙するところは十五年来の実際に行われ、今日の法律においてこれを許し、今日の習慣においても大いにこれを咎《とがむ》ること能わざるものなり。徳教の老眼をもってこの有様を見れば、まことに驚くに堪えたり。元禄年間の士人を再生せしめて、これに維新以来の実況を語り、また、今の世事《せいじ》の成行を目撃せしめたらば、必ず大いに驚駭《きょうがい》して、人倫の道も断絶したる暗黒世界なりとて、痛心することならんといえども、いかんせん、この世態《せいたい》の変は、十五年以来、我が日本人が教育を怠りたるのゆえに非ず。ただ開進の風に吹かれて輿論《よろん》の面目を改めたるがためなり。けだし輿論の面目とは、全国人事の全面目にして、学校教育の如きもこの全面目中の一部分たるに過ぎざるのみ。
されば今の世の教育論者が、今のこの不遜軽躁《ふそんけいそう》なる世態に感動してこれを憂うるははなはだ善《よ》し。またこれに驚くも至当の事なれども、論者はこれを憂い、これに驚きて、これを古《いにしえ》に復せんと欲するか。すなわち元禄年間の士人と見《けん》を同じゅうして、元禄の忠孝世界に復古せんと欲するか。論者が、しきりに近世の著書・新聞紙等の説を厭《いと》うて、もっぱら唐虞三代の古典を勧《すす》むるは、はたしてこの古典の力をもって今の新説を抹殺するに足るべしと信ずるか。しかのみならず論者が、今の世態の、一時、己《おの》が意に適せずして局部に不便利なるを発見し、その罪をひとり学校の教育に帰《き》して喋々《ちょうちょう》するは、はたしてその教育をもって世態を挽回するに足るべしと信ずるか。我が輩はその方略に感服する能わざるものなり。
そもそも明治年間は元禄に異なり。その異なるは教育法の異なるに非ず、公議輿論の異なるものにして、もしも教育法に異なるものあらば、これをして異ならしめたるものは、公議輿論なりといわざるをえず。而《しこう》して明治年間の
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