徳育如何
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)軽躁不遜《けいそうふそん》なり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)土壌|津液《しんえき》とに

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(例)※[#「月+濂のつくり」、第4水準2−85−50]噛《すねかじり》

 [#…]:返り点
 (例)邦有[#レ]道則仕
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    『徳育如何』緒言

 方今、世に教育論者あり。少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜《けいそうふそん》なりと称し、その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。福沢先生その誣罔《ふもう》を弁じ、大いに論者の蒙を啓《ひら》かんとて、教育論一篇を立案せられ、中上川《なかみがわ》先生これを筆記して、『時事新報』の社説に載録せられたるが、今これを重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
  明治一五年一一月[#地から2字上げ]編者識

    徳育如何

 青酸は毒のもっとも劇《はげ》しきものにして、舌に触《ふる》れば、即時に斃《たお》る。その間に時なし。モルヒネ、砒石《ひせき》は少しく寛《かん》にして、死にいたるまで少しく時間あり。大黄《だいおう》の下剤の如きは、二、三時間以上を経過するに非ざれば腸に感応することなし。薬剤の性質、相異なるを知るべし。また、草木に施す肥料の如き、これに感ずるおのおの急緩の別あり。野菜の類は肥料を受けて三日、すなわち青々の色に変ずといえども、樹木は寒中これに施してその効験は翌年の春夏に見るべきのみ。
 いま人心は草木の如く、教育は肥料の如し。この人心に教育を施して、その効験三日に見るべきか。いわく、否《いな》なり。三冬の育教、来年の春夏に功を奏するか。いわく、否なり。少年を率いて学に就《つ》かしめ、習字・素読《そどく》よりようやく高きに登り、やや事物の理を解して心事の方向を定むるにいたるまでは、速くして五年、尋常にして七年を要すべし。これを草木の肥料に譬《たと》うれば、感応のもっとも遅々たるものというべし。
 また、草木は肥料によりて大いに長茂すといえども、ただその長茂を助くるのみにして、その生々の根本を資《と》るところは、空気と太陽の光熱と土壌|津液《しんえき》とにあり。空気、乾湿の度を失い、太陽の光熱、物にさえぎられ、地性、瘠《や》せて津液足らざる者へは、たとい肥料を施すも功を奏すること少なきのみならず、まったく無効なるものあり。
 教育もまたかくの如し。人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資《と》るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議|輿論《よろん》とにあり。蝦夷人《えぞびと》の子を養うて何ほどに教育するも、その子一代にては、とても第一流の大学者たるべからず。源家《げんけ》八幡太郎の子孫に武人の夥《おびただ》しきも、能力遺伝の実証として見るべし。また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母の気象を承《うく》るは、あまねく人の知る所にして、家風の人心を変化すること有力なるものというべし。
 また、戦国の世にはすべて武人多くして、出家の僧侶にいたるまでも干戈《かんか》を事としたるは、叡山《えいざん》・三井寺《みいでら》等の古史に徴して知るべし。社会の公議輿論、すなわち一世の気風は、よく仏門慈善の智識をして、殺人戦闘の悪業《あくごう》をなさしめたるものなり。右はいずれも、人生の智徳を発達せしめ退歩せしめ、また変化せしむるの原因にして、その力はかえって学校の教育に勝《まさ》るものなり。学育もとより軽々《けいけい》看過すべからずといえども、古今の教育家が漫《みだり》に多《た》を予期して、あるいは人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶《とうや》し出だすべしと思うが如きは、妄想《もうそう》のはなはなだしきものにして、その妄漫《もうまん》なるは、空気・太陽・土壌の如何を問わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに等しきのみ。
 俚諺《りげん》にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏《ぶつ》の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気に感じて一般の公議輿論に化せらるるの勢は、これを留《とど》めんとして駐《とど》むべからず。いかなる独主独行の士人といえども
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